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春を感じて

春を探る 

古来より春を題材にした詩歌は多くありますが、春が感じられるようになる早春の時期の取り上げたい詩吟を紹介します。一つは、宋の時代の詩人戴益の「春を探る」です。

春を探る 戴益

<白文>
尽日尋春不見春 
杖藜踏破幾重雲
帰来試把梅梢看
春在枝頭已十分

<書き下し文>
尽日 春を尋ねて 春を見ず 
杖藜 踏破す 幾重の雲
帰り来たって試みに 梅梢を把って 看れば
春は 枝頭に在りて 已に十分

<意訳>
一日中、春はどこにあるか探してみた。
幾重もの雲を見ながら遠くまで歩いたものの、
春を見つけることができなかった。
帰ってみると、庭先にふと梅の梢があるのを目にした。
枝先の蕾みは膨らんでいた。春はもう十分ここにあったのだ。

尽日 いちにちじゅう
杖藜 枝で作った杖(老人が杖をついて春を探しに行ったことがわかります)
踏破 歩き尽くす(「踏破す 幾重もの雲」ということで、随分と遠くまで歩いたことがわかります)

二句の「杖藜」と三句の「梅梢」を対比すると面白いです。
「杖藜」も「梅梢」も同じ枝ですが、「杖藜」は杖として使われ、「梅梢」は枝の先に梅の蕾があります。一句、二句では、作者は春を探しに杖をつきながら遠くまで出かけたことがわかります。春らしい風景を探しに行ったのでしょう。杖をつきながら遠くまで出かけたということは、かなり疲れたことと思います。
三句「帰り来たって」とあるように、疲れて家に帰ってきたところ、ふと庭先の「梅梢」に目をやると、枝の先に梅の蕾がありました。開花していたものを見たかもしれません。目で見るだけでなく、梅の香りを感じていたかもしれません。作者は、身近に春があることを十分に感じたのです。

なお、この漢詩について、教室の生徒さんたちとも色々な話で盛り上がりました。

「普段、見過ごしてしまいそうなもの、ありませんか?」
「そのようなものをふと見つけたときの喜び、感じたことありませんか?」

禅の教えにもあるように、日頃は気付かないながらも、実は日常の身近なものに真理があるということです。幸せとは、自分の心の中にあるものであります。自分のすぐそばにあるものに幸せを感じ、今ある日常に感謝していきたいと思います。


胡隠君を尋ぬ

春先にもう一つ紹介したいのは、明の時代の詩人高啓の「胡隠君を尋ぬ」です。


胡隠君を尋ぬ 高啓

<白文>
渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家

<書き下し文>
水を渡り また水を渡り
花を見て また花を看る
春風 江上の路(みち)
覚えず 君の家に到る

<意訳>
水(川)を渡ると、また水(川)。(水辺の花が咲いているのでしょう。)花を看たら、また花。(花が咲き誇っています。花を見ながら随分遠いところまで歩いてしまうということはあるでしょう。)
春風とともに麗らかな春景色に誘われ、川沿いの路を歩いていたら、いつのまにか胡君の家に着いてしまった。

高啓の友人は、胡という姓で、隠居しているのですが、麗らかな自然の中に住んでいることを想像できます。高啓は、胡君の家を知らず知らずのうちに訪れてしまったよと、胡君の家に着いたとき、突然の訪問の挨拶として詠んだ詩です。

高啓は、明の時代、朱元璋から招かれ官職に就くのですが、年若い自分では重圧に耐えられないという理由で辞職します。自由人として、詩人として創作に意欲をみせるのですが、親しくしていた蘇州長官の魏観に謀反の疑いがかけられたことや、風刺作品を書いたことなどで嫌疑がかけられ、39才の若さで極刑に処せられました。
なお、高啓の詩は、夏目漱石や森鴎外などに愛誦されています。

春らしい風景を探して散歩するのが楽しい季節になりましたが、詩吟を知っていると散歩の楽しみも増します。

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