怖れを知ることは自分を知ること

「本当の自分」ということを、ここ最近、テーマに挙げて話をさせてもらっている。

タイトルの通り「怖れ」について話しがしたい。
怖れを知ることは自分を知ること、というありふれた話。

今日、警察の張り込み(ネズミ捕り)で、運転中に進路を止められ、7,000円の罰金を払うことになった。
7,000円も払うのだから、何か変えなくてはならないことや、学びがあるはずと思って今つらつらと書いている。

不安は連鎖する

不注意の多い自分なのだが、ここ2,3年、交通違反で捕まっていなかったのに、今日急に警察に捕まった。
「なんでなんだろう?」「なんで今日なのか?」そう考えると、いくつか思い当たる節があった。

業務委託をお願いしている妻に今日中に50万円の支払いをしなくてはならず、朝からお金を支払うことに”不安”を抱いていた。
支払うべき期日を1日過ぎていて”焦り”もあった。

最近は仕事が上手く行っているので、事実、50万円を彼女に渡したからといって、大変なことになる訳では全然ないのに”心配”だと思った。
そんな気持ちのまま、通勤に出かけた。

通勤途中、右折禁止の道路の手前に、信号の待ち時間が長い十字路がもう一つある。
けっこう長い行列ができてしまっていて、僕はその手前の十字路を本当は右折するはずだった。

だけど、僕が先頭になって、長い信号待ちがやっと青になったのに、対向車がやまず、後ろには長蛇の列が並んでしまっていて、後続の人たちの"プレッシャー"や、中々右折できず「またすぐに赤信号になるんじゃないか」と"不安"を感じた。

僕は正しい交通機関の使い方をしているのだから、本当はここで大人しく信号が変わるのを待って、右折すれば良かったのに
「全然進めなくて申し訳ないな」
「早くいかなきゃな」という”焦り”と”プレッシャー”が、ここでまた現れて出てきて、右ウインカーを辞めて、直進に切り替え「次の信号で曲がれば良いや」と思った。

結果、その普段通らない十字路から、右折することになり、右折禁止とは知らずに警察に捕まった。

不安や心配やプレッシャーの種は”怖れ”

普通に考えれば、2、3年ぶりに起こった、ただの偶然の「不注意による交通違反」と考えることもできる。それとこれを結びつけるのは「考えすぎでは?」とも思うかもしれないが、明らかにいつもと違う、僕の中に芽生えた”不安”や”焦り”が繋がって起きた出来事だと感じた。

普段なら朝からお金の心配をしたりもしない。
普段なら後ろの車がどうなろうが関係ないし、多少「悪いな」とは思うかもしれないが、進路を変えるまでのことはしたことがない。

妻への50万円の支払いという不安や心配が、信号待ちの長蛇の列の不安や焦りやプレッシャーに繋がり、その負の感情が結果、警察に捕まったという、結果に結びついたと考えても、おかしくはないと、僕は考えている。

僕なりの個人的な考えなのだが、不安や、心配や、焦り、プレッシャーなどの負の感情は”連鎖する”と考えている。
連鎖とは、自分の中で繰り返すという意味での連鎖もあるし、他人に対しても連鎖する(繋がる)ものという意味だ。

不安そうなしぐさや、心配そうな発言、焦りなどは、他人に伝播し、次の自分自身の行動を決定づける原因になるという意味で、総じて”連鎖するもの”だと考える。

これらの負の感情はなぜ湧いてくるのかと突き詰めていくと

”怖れ(おそれ)”なのだと思う。

お金がなくなることに不安な気持ちが湧きおこるのは、
「お金がなくなったらどうしよう」「お金がなくなったら困るんじゃないか」など、怖れが根幹にあるからだ。

僕が今日、後続車両の、ありもしないプレッシャーを感じて、右折することをあきらめたのも「後ろの車がイライラしてるかもしれない」などと、他人からの評価に”怖れ”ているからだ。

僕だけじゃなく、不安そうだったり、イライラしていたり、焦ったり、心配事が多い人は、突き詰めていくと間違いなく”何かを怖れている”ようなのだ。

不安や焦りや心配の根本には”怖れ”がある。


怖れと向き合うことが本当の自分に近づくこと

これは少し大げさかもしれないが、この、自分の中にある”何かに対する恐怖心”を知ることは、本当の自分自身に近づくことなのではないかと考えている。

例えば、僕は今日の出来事のように「他人に嫌われること」への恐怖を、昔からずっと抱えて生きている。

それは妻であったり、見ず知らずの後続車両だったり、このnoteを見ている誰かだったり、世間という見えもしない人々だったりする。

嫌われることや、他人に評価されることを”怖れ”ているから、その”怖れ”は、僕の行動に現れる。
その”怖れ”から生まれる心配や不安から起こる僕の行動は、僕にとって”思わしくない結果”を招くことが多々ある。

本当はもっと明るく生きたいと心から願っている
本当はもっと多くの人とふれあって生きたいと願っている
もっとユーモアや面白さ不真面目をもって生きたいと願っている

そんな、根暗な今の自分にはない願いを、僕は”本当の自分”であって欲しいと願っているし、求めている。

しかし、それを阻んでいるのが”怖れ”だとも気が付いた。

明るく面白い昔の自分に近づくことや、誰かと関わることに、心配事や不安事がすぐに湧き出てきてしまう。
何故かと突き詰めていくと、僕の心の中に”怖れ”があったからだ。

今日の僕の一連の心に現れた情動は、流れのようになっていたと感じた。
怖れが不安に変わり→不安がプレッシャーに変わり→プレッシャーが焦りになり→焦りが負をまとった行動に繋がった。

警察に捕まることは小さいな出来事だが、僕の人生の大きな変われない部分も、怖れが関係している。
僕が願う「本当の自分」に近づくには”怖れ”と向き合う必要がある。

怖れと不安と安心と

怖れは、動物が生きるための最も重要な感情だ。
恐れが無くなったら、人や動物は生きられない。
怖れがあるから、これまで何万年も生きてこられた。

僕の好きな漫画の悪役が「人は安心するために生きている。あらゆる行動や決定は”安心”を得るためだ。」と言っていて、なるほど、と思ったことがあった。
確かにそうで、安心したいから僕らは毎日働き、安心したいから結婚したり、安心したいから書いたり、安心したいから行動している。
それは間違いないと思っている。

「安心したい」それは、言い換えると「人は”不安”から逃れたい」とも言え、またそれは「”怖れ”から逃れたい」とも言いかえられる。
それほどに、人の行動や決定は”怖れ”が根底にあり、怖れに支配されているとも言えるだろう。

”安心”するための行動と聞くと、悪い気はしないのに
”怖れ”から逃れるための行動と聞くと、なんとも言えない嫌な気持ちになるのはなんでだろう。

それは”安心”と”怖れ”を更に掘り下げていくと
”快楽”と”痛み”という生物的な原理から来るものだと分かる。
人(生物)は”快楽を求め、痛みを避ける”ために生きていて、二つは表裏一体である。
なぜなら根源的に”怖れ(痛み)”を避けることは”安心(快楽)”を得ることと同義だから。
あまり信じたくないが、怖れ=安心と言える。
細かく言えば完全な一致ではないけれども、二つは非常に近いものである。


捉え方が違うだけ

きっと、私たちには小さな細胞だった頃からのDNAレベルで、この”怖れ”という感情が刻まれている。
だから逃れようがないものだ。

けれども、上記で話したように”怖れ”と”安心”は表裏一体で、要は捉え方が違うだけなのだ。

私たちの中には「細胞レベルで怖れがある」と捉えることもできるが
私たちの中には「細胞レベルで安心がある」と捉えることもできる。

何が言いたいのかというと”怖れ”を怖れることもないという話。
冒頭の話からの流れでは「怖れから僕は捕まった、怖れをなくそう」という結論に至るのが普通だが、こうして書いて考えてみると、そうではないのかもしれないと思ったのだ。

だって、僕らには”痛み”と”快楽”=”怖れ”と”安心”が細胞レベルで染みついている。
脳みそをいじって、痛みと快楽を取り除いたら、もうそれは生物ではない。それくらい、どうしようもないことなのだ。

僕の今日の朝の出来事、妻への50万円の怖れ、信号待ち長蛇の列の怖れ。
”怖れ”と言えば聞こえは悪いが、僕はただ”安心”が欲しかっただけなんだ。手元に50万円がある安心、誰にも迷惑をかけていない安心、ただそれが欲しかっただけ。

だから、もっと言うと、警察に捕まって7,000円をカツアゲされたことでさえ、悪いとか良いとかじゃない。

だって、そのおかげで今、こうして僕はまた一つ学びになっているし、誰かの暇つぶしか、誰かの安心につながってもいるでしょう。

僕は、これを書き始めたころは「警察に捕まった、悪い事が起きた」と決めつけていたし、そう捉えていた。
「その原因は怖れである。」とも捉えていて、危うく「怖れをなくそう。」とまで言いかけた。

だけど、果たして本当にそうかな。

元も子もないような話になってしまうのだけれど、悪い事か、良い事かなんてのも、結局は分からない。
悪いと想えば悪いし、良いと想えば良い。
人生とはそういものだ。

”怖れ”自体も、悪者のように感じるし、実際「何を怖れているの?」人に聞かれれば、苦虫を嚙み潰したような、嫌な気持ちになるけれど、本当は悪いものじゃないのかもしれない。

だって、怖れがあったから、今の自分がある。
そしてこれからも、怖れがあるからこそ出会える自分もある。
だから、怖れを怖れないで欲しいと思っている。

しかし”怖れ”が確実に今の自分の中にあることも事実。
何かに対する怖れが、今の自分を創ってきたことも事実。

僕が求める「本当の自分」というものは、今の僕の次元にはない「別の次元の自分」だと以前話をしたが、別の次元の自分になることを阻んでいるものの一つに”怖れ”が深く関係していることは事実なんだ。

だから僕は、警察に捕まったことなんて、本当はどうでもよくて、良い結果、悪い結果のためじゃなくて、変わる為にこのnoteで”怖れ”と向き合うことを考えたかったのだと思う。

変われないのは”怖れ”という大きな壁があるからだ。
僕にとって”次元を超える”とは、この”怖れ”を知り、その向こう側に行くこと。

決して”怖れ”に立ち向かうためでも”怖れ”を悪者にしたいわけじゃない。
長くなるから、この辺で終わりにするけれど、いつかこの”怖れ”にさえ、ありがとうって言って、愛してあげたいと思ってる。
”怖れ”が今の僕を創ったから。
そして”怖れ”を知ることで、その先にいる自分にまた出逢えると思うから。
その先にも、また”怖れ”はあって、二人三脚なんだ。
一生一緒なら”怖れ”すらも愛してあげたいと思うのだ。

おわりに

人によって”怖れ”は違う。
例えば、母親を怖れる人もいれば、母親に安心する人もいる。
例えば、パンを怖れる人もいれば、パンに安心する人もいる。
例えば、人前に出ることを怖れる人もいれば、人前に出ることで安心する人もいる。

この人それぞれの”怖れ”の違いは”経験と体験”による違いだ。
経験の中で”痛み”を味わったか、”快楽”を味わったか(体験)で、人によって全く違うものになる。

僕は朝、50万円が僕の懐から出ていくことに”怖い”と想った。
それはこの数年、お金がなくて沢山の痛みを味わったから。

信号待ちの長蛇の列、後ろの車の人々のあるかどうかも分からない「迷惑」を”怖い”と想った。
それは、今まで人に迷惑をかけることで沢山の痛みを味わったから。
その痛みと”怖れ”に囚われて人は生きてきて、人格を形成してきた。

最近では”AI”が話題だが「AIと人の違いって何だろうか?」と考えると、僕は”経験と体験”だと思っている。
確かにAIには、人以上の知恵や知識を持ち、人の代わりになろうとしているが、彼らに唯一ないのは”経験と体験”だ。

もちろんこれから先の将来、人と同じように皮膚を持って経験を基に学習するAIが出来るかもしれないが、それでも人に完全に成り代わることはできない。

なぜなら、当たり前な話だが、人と人でさえ、経験と体験が違って、その人に完全に成り代わることができないように、どんなにAIが発達しようとも、AIが人に成り代わることはできない。

それほどに”経験や体験”とは貴重なものであり、その人をその人たらしめる根源でもあると言える。

だからこそ”経験と体験”で培われた”怖れ”を知るべきなのだ。
”怖れ”の手前にある、連鎖する繰り返しの中には、新しい自分はいない。
自身の”怖れ”の壁の次元を越えた先にある、新たな”経験と体験”にこそ、新たな「本当の自分」がいると僕は思えてならない。

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