見出し画像

友情化する社会

アイデンティティの越境。
リリックに一貫する励ましの哲学。
シンプルかつ混淆的なサウンドの心地よさ。
都会的に洗練されながらも喚起される自然との一体感。
2001年に登場したDef Techは、あらゆる意味で新しい世紀の到来を体現するものだった。
その新鮮さは、いまも変わらない。

しかし、彼らの唯一無二さ。
それはMicroとShenの2人が醸し出す、新しい関係性ではないかと、今さらながら思う。
そこではあきらかに、前世紀的な古い「友情」のニュアンスが上書きされている。
じつは「友情」があって、はじめて私たちのなかに人間性というものが浮かび上がる。
恋愛とか血縁よりも軽やかに見えて、より人間の本質的で強い親密さ。

『友情化する社会』(2015年・岩波書店)は、英国ニューキャッスル大学芸術文学部のデボラ・チェンバース教授が2006年に刊行した書籍の邦訳。
この数年で読んだ本の中から、印象深いものを何冊か挙げろといわれたら、私は迷うことなくこの本の名を挙げたい。

友情は、血のつながり等にもとづくわけでもないのに、なぜか関係性が取りもたれているという、そのことだけをもって定義するしかないような、特殊な紐帯である。(同書)

チェンバースは、これまで軽視されてきた友情という紐帯が、欧米諸国の政策関係者のあいだで、すでに重要な「社会関係資本」とみなされていると、2006年の時点で指摘している。
家族、近隣、共同体の伝統的な結びつきが衰退し崩壊しつつあるなかで、新しい種類の社会的結びつきとして「友情」が浮上してきている。

COVID-19のパンデミックは、人々の「他者との接触」を大きく制限した。
ウイルスは人々の関係性をいちいち忖度してくれない。
そのことは目下、私たち一人ひとりの人間関係を、ある意味でフラット化しつつある。

家族から、血縁であることや性的関係性や生活の共同性を取り除いていったとき、そこに残るものは何か。あるいは、地域共同体や職場を離れ、一切の利害関係がなくなったとき、それでもそこにいた相手とのつきあいがつづくとすれば、何がそうさせるのか。私たちはその何かを、友情とか親しさ(親密性)と呼ぶしかあるまい。その点で、「友情」とは、おそらく私たちの社会の原基をなすものに与えられた名称である。(前掲書の訳者あとがき)

これまでは、恋愛や、その到達点としての婚姻。そこから形成される家族という血縁は、自明のように友情よりも上位に置かれてきた。
さらに日本では地域共同体や職場の人間関係が、ときには家族よりも優先されてしかるべきものという倫理観が強要されてきた。
地域共同体や職場が「公」なのに対し、家族はどこまでも「私」に属するからだ。

ちなみに、日本では殺人事件の約半数が「親族間」で発生しており、65歳以上が起こした殺人事件では7割が「親族間」になっている。
血縁という関係が選択の余地なく義務にもとづくものであり、しかも閉鎖的で支配/従属の生まれやすいものであることと無関係ではないだろう。

ここで「友情」というものの概念を更新して、義務や利害を取り除いた〝社会の原基〟となる人と人との関係性とみなしていくならば、自分と他者をめぐる景色は変わり得る。

「友情」とは何か――。
確実なことは、義務として付された関係性ではないこと。
自分の主体的な〝選択〟によってのみ成立する、親密な関係性。

その意味では、恋人も夫婦も「友情」のひとつの形態であろうし、師弟もまた「友情」の(人間にしか持ちえないという意味で)おそらく究極の形態となるのだろう。
恋人は婚姻に至ると互いに義務と責任を負うが、それゆえに義務にも責任にも縛られないで成立する「友情」の親密さを越えられなくなるともいえる。

そして、そのような〝自発性〟〝内発性〟〝主体性〟で人間関係を捉え直すとき、旧来の血縁という義務化された関係をも脱構築できるのではないか。
つまり、「友情としての家族」も成り立ち得るし、あるいは「家族としての友情」も、私たちには成り立ち得るのである。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?