学びを止めてしまったとき

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Photo by Nicole Keller on Unsplash

ソフトウェアエンジニアとして働いて15年になった。18で単身東京に出てきた若造が100人規模の受託会社にお世話になり、そこから長い時が過ぎた。

15年もエンジニアをやっていると、大抵のことは自力でこなすことができてしまう。これまでもいろんな会社を転々として、そのたびに触ったことのない環境・言語で仕事をすることが多かったが、質の良し悪しはともかく、仕事自体はそれほど苦もせずやってこられた。自分ではそう思っている。

最近、自発的に新しい学びをできていないことに愕然としている。新しい技術書を買う、スキマ時間ができたら読む。しかし、これが全くもって続かない。仕事で直面し必要に迫られて学ぶことは今でもできる。でも、「大抵のことは自力でこなすことができてしまう」故に、必要に迫られない学びが継続できないことに、自宅にこもりがちで時間があるはずの今だからこそ、気づいてしまったのかもしれない。

追い詰められればなんとでもできる、とは、追い詰められなければ何もできない無能である。少なくとも私の場合はそうだ。

この現実とどう向かい合うべきか。今ははっきりとした答えは出せない。動き出さないといけないことはわかっているが、何を契機に克服できるかわからない。何かしないといけない。でも何も方法が見えない。学びを止めて生きることは寂れた建物を眺めているようだ。日が経つにつれ色褪せていく様を何もできずにただ見ていることしかできない。

この鬱屈した思いと向き合いながら、Twitterを見る。Facebookを見る。流れてくるタイムラインの眩い奔流に、今日も昨日も、そしてきっと明日ですらも翻弄されて生きていくのだろう。

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