違和について

時々思う、違和感について。

音楽をやっていると、
「救われました、ありがとう」
と、言われることがある。

この 救われた → ありがとう にいまいちピンとこない自分がいる。
コンビニで働いていたら急にお客さんに「救われました。」と言われるくらいの違和感だ。

コンビニの業務に「人を救う」は恐らくない。
同じように、自分の音楽にも「人を救う」という業務はない。

ましてや自分は、やりたいことをただ人前で撒き散らしている変人に過ぎない。

自分は、リスナーとアーティストにそこまで深い関係性を感じていない。

リスナーは勝手に好きな音楽を聴けばいいし、アーティストは勝手に好きな音楽を作っていればいい。

あとはそれがたまたま噛み合ったり噛み合わなかったりするだけだと思っている。

噛み合わないなら聞かない、以上。
そのくらいシンプルでいい。

だからこそ、わざわざ批判によって質を高めようとしにこられるとしんどいし、
望んでもいない他人の手が入ったものを自分はやりたくない。

2010年に音楽をやり始めて、少しは自分の音楽に対するリスナーも現れ始めた。

「救われました」みたいなことも言われるようになった。
それに対して、やはり僕は特に何も返す言葉がない。

「救われること」を選んだのはその人だし、僕は誰かを救おうと思って音楽をやっているわけでもない。
その場合、偉いのはその人自身であって僕ではないはずだ。

僕に何かを言うくらいなら、まずはそんな自分を褒めてあげたらいいと思う。

自分がアーティストとして純粋に有難いと思えるのは、自分の音楽に価値があると判断したリスナーがそれに対しての対価を支払ってくれることだ。

その対価はお金や、自分の音楽をシェアしてもらうこと(広めてもらうこと)だったりする。

お金が全てと言いたいわけではないが、表現にお金を貰えるということでもう十分過ぎるくらい有難いので、それ以外特に何かが欲しいわけじゃない。

シェアに関して言えば、飲食店で料理の写真をシェアするとドリンクが無料になったりするのと同じだ。お店にとってはそれが対価を払うことになる。

価値を感じないのであれば対価は払わなければいい。
言葉をこねくり回すより、それが早い。

話が雑然としているが、自分は少なくとも「人を救う」業務はやっていないから、そこに感謝される理由はない、ということが言いたかった。

あとは、こんな文章でもいいなと思ったら、無料記事でも対価を払ってくれたら有難い。

そんな人がもしいたら下記サポート機能から。(note)

THURSDAY'S YOUTH
篠山浩生

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