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私たちは理想が高い!?

本日は2018年8月12日です。初投稿ですが、少し前に書き溜めたものを。

さて、本日は【私たちは理想が高い!?】と題して書きたいと思います。テーマは、教育とは少し離れます。

皆さんは「理想が高い」という表現をいつ使うでしょうか。よくTwitterなんかでは、結婚相手を選ぶときなどに使われているでしょうか。「○○歳なのにまだそんな条件で探しているの!?」とか「そんな容姿なのにそんなかっこいい(かわいい)相手を探しているの!?」とか皮肉のような感じですかね。私なんかは、後者なんかを見るとああ価値観に縛られているな、と感じてしまうのですが。

今回このテーマを選んだのは、ある東京医大女子一律減点の件に関するツイートで、「(一般的に下駄履かせの性差は)男が下駄を履いているというより、女が異常に機会を奪われているように感じる」というものを見たからです。東京医大の件に関しても、書けることはありますが、今回はより抽象的に。

さて、このツイートから感じたことは、仮に世界が100の要素でできていたとして、また現状は男:女=80:20の取り分の世界だとして、それは理想として男:女=80:80になるべきだと言っているのではないかということです。人としてこのくらい(この例でいうと80)は享受してしかるべきという基準を自分の中で設定していて、男がもらいすぎなのではなく、女が不当にもらっていないのだという。

とはいえ、世界の資源には限界があります。一人一人の人間がこれだけ享受すべきだというラインそれ自体は、近代以降の技術の進歩でかなり上がってきました。しかし、現時点で享受できる限界はあります。だから50:50しかお互い享受できないわけです。確かに男との差を感じてその分を求めるのはわかりますが、誰かの利益を増やせば、その分誰かが割を食うのですよというお話で。

このような具合にこのツイ主は理想が高いんじゃないかと思ってしまったのです。まあ何ら具体的なツイートではなかったので何とも言えませんが。

ところで初めの方に相手の容姿の理想が高いという例を出しましたが、最近は本当に容姿を気にする人間が増えたと思います。これは男女限らず。女性の方がまだまだ気にされている割合は多いでしょうが。顔だけ見ても、肌には少しでも凹凸があってはいけないとか、産毛が生えていてはいけないとか、まあ口には出しませんがそういう前提で生活している人はいますよね。

テレビ番組でも本当に、顔のきれいな(逆にあまりスタイルは重視されていないのではないでしょうか、人にもよりますが)人が次から次へと消費されています。とにかく容姿が生える人を出さないと、視聴率が取れない。それだけ視聴者が容姿を求めているといえます。

内容もかなり変わってきているのではないでしょうか。バラエティ番組でも、内容的に面白いものよりも、とにかく「ガッキーが出るから」とか「広瀬すずが出るから」テレビを見る人が多いような。最近私は朝ごはんの時にAbemaを見ますが、本当に(アニメや外国のドラマ、スポーツ以外には)美男美女が疑似恋愛ものをやっている番組しかない。これも本当に現代人が好きそうな容姿の人ばっかりが出る。こんなものを見ているからすぐ憧れて、自分もこのくらいの恋愛を求めるようになってしまうのですね。AVのようなもんですね。

恋愛の本質ってそれこそ人を愛することくらいでしょうが、今の年頃の人たちは、きれいな容姿、小綺麗な恰好、おしゃれなデートスポット、そんなものが本質に含まれているのではないでしょうか。確かに人から好かれるためには、相手が好むことをする必要があり、その相手の好むものとは、、、と結局本質に近いところまではいっているのですがね。しかしなぜ、人々がそうしたものを好んでしまうのか。結構、消費者目線というか受けて目線で物を考えることに(よく言えば)長けているということでしょうか。。。

さてまあそんなものに実際どれくらいの価値があるのかはよくわかりませんが、昔より明らかに恋愛の難易度は上がっているのではないでしょうか。かけるコストは段違いに思えますし、そもそも最低条件が高い。レベルが上がるとそれこそ幸せですが、そのためにかける負担は大きくなる。相対的に幸せは小さくなる。でもみんなそのレベルに憧れ合わせてくる。同調圧力で理想が高くなるわけですね。みんなでみんなを生きにくくしている。80をたくさん生み出せばいいのに、1つの(決して達成できない)100をめざしている。達成感は乏しいし、何より苦しい。しかも、この価値観、意外と本人たち以外にそんな価値観を持ち合わせていない人にも影響を及ぼすから厄介ですね。

ここで考えていただきたいのが、本当にそんなことして暮らしは「善く」なりますかということです。上がってしまった理想を下げるのは難しい。じゃあみんなでやっていきましょうよ、少しずつ、ということになりましょうか。当たり前のレベルというのは決して高く設定しない方がいい。それが本当にコストに見合った「善さ」につながるなら別ですが。もちろん個人的に何かやるときにそういうマインドを持ち合わせることは大切ですが。日本人結構そういうのを周りに求めてしまうし、周りも反応してしまいますから。

結構だらだら書いてみましたが、結局理想なのか最低条件なのか当たり前なのかわかりませんが、あなたの求めているものは本当に当たり前ですか?と問い直してみることも(例えば、前段の内容で言えば、当たり前って80ではなく本当は50では?)時には気持ちを楽にしてくれるのではないでしょうか?

教育や社会全般について批判的に検討していきます。もしサポートいただけましたらより高い頻度でノート更新していきたいと思います!