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今更「シン・エヴァンゲリオン」と「エヴァンゲリオン」を総括する。


エヴァンゲリオンが好きだった。


新劇場版シリーズが始まった時、
はじめてあのエヴァをリアルタイムで見る事が出来る!と
高校3年にして初めて不登校を経験していた僕は
引きこもり状態だったにも関わらず
平日の昼間に映画館へと自転車を走らせていた。

賛否両論が巻き起こった新劇場版Qも
これこそがエヴァなんだ!
と必死に擁護していた。

そんな僕にとっても9年間という月日は長かった。
シン・エヴァンゲリオンの公開日が決定した頃には
あれだけあったエヴァ熱もすっかり醒めていて、
これで本当の本当に最後らしいし
一応見といてやるか
ぐらいの熱量になっていた。
(醒めた感じを装いつつもやっぱり内心は結構ワクワクしていた。)

だが、案の定というか結局新劇場版でも
迷走に迷走を重ねたエヴァンゲリオンは
最終作もなんとも微妙な出来で終わってしまった。
世間同様
紆余曲折あったけど完結出来たんだからそれで良いじゃん
という気持ちがある反面、
やはり作品単体としてはお世辞にも心の底から面白いとは思えず、
結局その時劇場で一回見たきりで終わってしまった。

だが、そんなシン・エヴァンゲリオンという作品で
唯一心を打たれたのが
碇ゲンドウという人間の描写だった。

主人公


シン・エヴァンゲリオンを見て
エヴァの主人公は碇ゲンドウなのだと思った。

シン・エヴァンゲリオンでは
他人どころか自分の息子にすら
一切心を開くことがなかった碇ゲンドウが
堰を切ったように自分の心情を吐露していく。

外の世界の他人と上手く共存する事が出来ず、
唯一愛した(愛された)存在すら失ってしまった彼が
行き着いた考え方が
人類補完計画である。

人類が永遠に分かり合う事が出来ないのであれば
他者の存在、他人との軋轢が不幸を生むのならば
いっそのこと個を捨てて
人類が一つになってしまえば良いじゃないか
という事である。
個を捨てて一つの個になればいい
という事である。

なぜ碇シンジは人類補完計画を拒絶したか


なぜゲンドウと同じく
他者と上手に付き合う事が出来ない碇シンジが
ひとまとまりの存在になることを拒否したのか。

それはシンジが誰からも愛されなかったからである。

誰からも受け入れられた事のないシンジは
他者に受け入れてもらう事を期待していた。

ゲンドウは唯一自分を受け入れてくれた
ユイさえいれば良かったのだが、

誰からも愛された事のないシンジにとっては
人類補完計画は無意味なのである。

人類の行き着く先は単体かそれは退化か


エヴァ熱を失った今でも
人類補完計画には感銘を受ける。
共感する。

暴論だが
考え方が素直で純粋だと思う。

インターネットの普及で
ますます他者の考えに触れる機会が増えている。
他人の考え方を気にする事が増えた。

いずれ他者との境界はどんどん薄くなり
融合していくのかもしれない。
人々が個を突き詰めた結果、
個はより一つの個に集合してゆくのかもしれない。

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