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コラボ連載小説「旅の続き」6

 本作は、mallowskaさんが書いてくださったコラボ小説「夢の終わり 旅の始まり」の続編をmay_citrusが書いたものです。週1で更新しますので、宜しくお願いいたします。

  扉写真は、きくさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


 本番の朝は花雲りだったが、昼過ぎには薄い雲を透かすように陽が差してきた。ニャルソックを終えた茶白猫の柚子ゆずは、早速日当たりの良い縁側に陣取り、毛づくろいを始める。頬をかすめる空気は温かく、桜の開花が近いと教えてくれる。もうすぐ、ここから見える山並みが、ぽつぽつと桜色に染まるだろう。

 私は縁側に出て柚子を抱き、麗らかな陽が差す空を見上げた。白豆柴の胡桃くるみが足元にまとわりついてきたので、柚子をおろして抱き上げる。

 この空の下、川嶋くんは、香川先生は、透は、どんな思いを抱えているだろうか。それぞれの挑戦を控えた3人の幸運を祈り、胡桃をおろして、彼らにLineを送った。

 協奏曲の経験を経て、川嶋くんのピアノとの向き合い方、父親との関係、そして他人との関わり方に、どんな変化が現れるだろうか。音楽を創造する人々の思いが交差し、融合し、聴衆の心にも波紋のように広がっていくことを想像すると胸が騒ぐ。

 スプリングコートに身を包み、ホールに車を走らせながら、リハーサルを見た香川先生からきた「彼はまた化けた。本番が聴けないのが悔しい!」というLineを思い出す。リハーサル後、指揮者の倉橋くらはしさんが、川嶋くんを経営する楽器店のスタジオに呼び、つめ切れなかった部分を指導してくれたと聞いた。
 リハーサルにフェルセンのコーヒーとパウンドケーキを差し入れに行った透は、「曲が川嶋くんの身体に馴染んで、オケと一体になったように弾いていた」と驚嘆していた。休憩時間には、川嶋くんが若い団員と談笑し、Lineを交換していたという。

 川嶋くんが一番演奏を聴かせたいお父さんは、本社出張が重なり、1週間の予定でドイツから一時帰国中だ。最終日である今日、お父さんはホールで演奏を聴いて、成田空港に直行する。

 よい演奏につながる材料が、少しづつ集結していくのを肌で感じる。あとは、川嶋くんが平常心で本番に挑めるよう祈るしかない。

                ★
 開場したホールに入ると、4割ほどの席が埋まっていた。入場無料だが、客席を一杯にすることは難しいようだ。香川先生から、聴衆のほとんどは、団員の家族や友人だと聞いた。
 ステージ上には、フルオーケストラ編成の椅子と譜面台、打楽器、ハープ、ピアノとチェレスタが準備されている。時間があるので、川嶋くんに連絡して、楽屋を訪ねようと思ったが、彼は集中したいだろうと思いとどまった。

 舞台がよく見える後列の中央入口前の席に座わる。プログラムを開くと、印刷が間に合ったようで、香川先生ではなく川嶋くんの名前がしっかり入っている。

第一部 
ショスタコーヴィチ  交響曲 第五番 

第二部
モーツァルト オーボエ協奏曲 ハ長調      オーボエ独奏 大谷 響 
バッハ チェンバロ(ピアノ)協奏曲 第五番   ピアノ独奏 川嶋 稜央

 
 川嶋くんから、ソリストはアンコールを一曲弾くと聞いていたので、何を弾くのかと思いをめぐらせる。きっと、お父さんに一番聴かせたい曲だろう。ふと、この会場のどこかに彼のお父さんがいる気がし、辺りを見回す。写真を見たことがないので、彼と似た40代半ばの男性を探すしかない。だが、座席指定がないので、どこを探したらいいかわからず、この人だと確信できる人は見つからない。川嶋くんのお母さんの桜子さくらこさんと、今年高校生になる妹の陽菜ひなさんも来ると聞いているが、母と娘の2人連れは意外と多く、見当がつかない。

 やがて、開演前のブザーが鳴り、客席の照明が落とされる。ステージ上に燕尾服や黒服に身を包んだ老若男女の団員が出てくると、客席から、さみだれのように拍手が起こる。コンサートマスターの宗方むなかたさんが出てくると、一際大きな拍手が湧き上がる。弦メンバーは、練習で見たときよりずっと人数が多い。プロオケから助っ人を頼んでいると聞いたので、この中にいるのだろう。
 
 ペンライトで足元を照らすスタッフに導かれ、何人かが遅れて席につく。客席での咳や咳払い、子供を静かにさせる親の声が続き、やがて静寂が訪れる。それを見計らったかのように、指揮者の倉橋くらはしさんが出てきて、大きな拍手が起こる。

 聴衆によって作り出された静寂のなか、倉橋さんのタクトが振り下ろされると、途端に意識を音楽に持っていかれる。
 ショスタコーヴィチの交響曲第五番。体制側ににらまれたショスタコーヴィチが、名誉回復をかけて作曲したと言われる伝統的なスタイルに回帰した交響曲。美しくも悲愴感の漂う弦の音に全身を包まれると、それぞれに音楽と向き合っている男たちのことが思われる。

 父親との複雑な関係を抱えた川嶋くんの存在は、香川先生、そして透の肉親への思いを触媒のように刺激した。 

 香川先生と川嶋くんの父親への思いは、透の心の奥底で燻っていた父親に対する感情を揺さぶった。透は今ごろ、藤岡ふじおかさんのお孫さんの結婚パーティーでピアノと歌の生演奏をしている。家族の絆を強く意識させられる場に身を置き、透は唯一の肉親であるアメリカ在住の父親に思いをはせるだろう。その思いは、今日の演奏、そして今後の父子関係にどう影響するだろうか。 
 

 香川先生は、アンサンブルコンテストの全国大会に顧問として付き添っている。先生が離婚して息子さんに会えなくなったと知り、彼は自分の息子に注げない分、生徒に愛情を注いできたのかもしれないと思った。
 そんな彼は、川嶋くんと父親の関係の変遷を聞き、生き別れになった息子の存在を強く意識させられた。先生の実の息子への思い、そして川嶋くんとの関係は、これからどこに向かうだろうか。

  
                ★
 休憩後に席に戻ったとき、空席だった後方右側の入口近くの席に、スーツ姿の男性が腕組みをして座っているのが目に入った。離れているので、よく見えないが、スーツを着ていても筋骨隆々とした体型だとわかる。妙に存在感があり、周囲を容易に寄せ付けない雰囲気、そして顔の造りが川嶋くんに似ていないとは言えない。さりげなく近づき、観察しようと立ち上がったとき、開演ブザーが鳴ってしまう。

 小編成になったオーケストラと大谷おおたに氏のオーボエ協奏曲が始まる。華やかで、よく歌うオーボエの音に心躍るが、川嶋くんの演奏と先ほどの男性が気になり、音楽に入り込めない。照明が落とされているせいで、男性の表情をうかがえないのがもどかしい。

 集中できないまま、協奏曲とアンコールが終わってしまい、大谷氏に申し訳ない気分になる。オーケストラが、川嶋くんの弾く協奏曲の編成に変えられる間に、先程の男性の様子を見ると、落ち着かない様子で腕や脚を組み替えている。そのとき、彼が座っている背後の入口が開き、遅れてきた客が入ってきて、彼の横顔に鋭い光が当たった。一瞬見えた鼻梁の高い横顔を見て、私は間違いなく川嶋くんと同じ血が入っていると確信した。息苦しいほど鼓動が高まる。

 準備が整い、指揮者の倉橋さんに伴われて、燕尾服姿の川嶋くんが出てくると、好奇心の混じった拍手が起こる。香川先生が恥ずかしがる川嶋くんを説得し、レンタルショップに連れていって選んだ燕尾服は、少しぎこちないが、長身で足の長い彼の容姿を引き立てている。お父さんらしき男性も、顔の高さまで両手を上げ、拍手を送っている。

 指揮者とコンマスと握手を交わした川嶋くんは、椅子の高さを確認して、鍵盤に両手を乗せる。指揮者の倉橋さんと目を合わせる彼の横顔には、緊張による強張りがあるが、瞳は冒険に乗り出す少年のように光を放っている。彼は大丈夫だと思った。

 練習のときより、ゆったりとしたテンポで、第一楽章が始まる。硬めの音に調律されたピアノは、テンポを落としてもいかめしい雰囲気を醸し出す。何度も奏でた曲は、川嶋くんの身体に馴染み、以前のような気負いはない。あるのは、オケと一緒に彼の音楽を届けるという意気込みだ。

 ピアノとオケが引きあうような緊張感が、人間関係に不器用な川嶋くんが周囲と衝突し、傷を負いながら懸命に歩んだ日々を想起させる。オケとの掛け合いは、このままで良いのかと問いかける周囲と彼の心の叫びだ。ソロで際立つ端正で透明感のある音色は、過酷な日々を生きのびた魂の結晶だ。
 お父さんのことを知り、腹の底に強い憎しみを抱き、あらゆる手段で探し出し、対峙して炸裂した感情がトリルに重なる。その後に芽生えた名状しがたい感情が曲に乗って吐露される。
 流れていく曲は、彼の表現のために存在するのではと思わずにいられない。

 第二楽章に入り、ワルシャワで、新たな関係を模索する父と息子の姿が描き出される。ぎこちない会話、異国情緒あふれる料理や酒、共に目にする風景や歴史遺産に助けられて深まる関係、奏でた曲、父に認められたことで生まれた新たなアイデンティティ。甘やかに、悩まし気に流れるピアノソロは、川嶋くんの心の襞まで深く伝えてくれる。弦のピチカートは、お父さんには別の家庭がある現実を常に意識させる。

 舞曲風の第三楽章は、新たに芽生えた父親への思慕を抱え、悩み続ける彼の心情をダイナミックに訴える。力強さの奥底に、恐れや悔恨を抱えた父親が、ふっと消えてしまうかもしれない不安。不安から解放されようとメッセージを送り続けるも、返信を得て得られる安心は長く続かない。傍にいられないもどかしさを抱えながら、安堵と不安を際限なく繰り返す日々。
 浮き沈みする感情は、バッハが構築したアップテンポでエネルギッシュな音楽に乗り、直球で伝わってくる。

 川嶋くんは、温かい拍手を全身に受け、興奮冷めやらない顔でお辞儀を繰り返している。彼を見つめる視界が霞む。
 この表現は、川嶋くん一人では決してできなかった。彼がオケと衝突し、協調を見出し、共に奏でることで可能になった表現だ。彼の音楽表現は、仲間を得たことで、また幅が広がった。

 川嶋くんが、ステージ上から左後方に強い視線を送る。その先にいるのは間違いなくあの男性だ。

 周囲が座ったまま大人しく拍手をしているなか、立ち上がって大きな拍手をしている長身の男性は目立つ。その姿は、川嶋くんの思いがお父さんの心に響いたことを証明している。彼は、協奏曲を通して、この場にいる誰よりもはっきりと等身大の息子の姿を見たはずだ。

 指揮者に促され、川嶋くんがアンコールを弾くためにピアノ椅子に座わる。何を弾くのかという好奇心で、会場の空気が緊張する。

 川嶋くんは、目を閉じて精神を集中した後、もう一度、お父さんに視線を投げる。

 力強いオープニングから、リズミカルで勇壮なメロディーが続く。

ショパン「英雄ポロネーズ」

 試練を乗り越えた川嶋くんに似つかわしい堂々とした曲だ。フェルセンで、初めて聴かせてくれたときよりもずっと力強く、会場の隅まで響きわたる。
 清々しい表情で奏でる彼は、ワルシャワでのお父さんとの思い出と戯れているに違いない。私にも、ワルシャワの鮮やかな夏空、風にさざめく木々が見える気がした。

 暗がりで、お父さんらしき男性の表情は読めないが、リズムに合わせ、かすかに身体を揺らしているように見える。

 
              ★
 再びフルオケ編成になり、最後のアンコール曲 J.シュトラウス「ラデツキー行進曲」が演奏されて終演になった。

 私は、お父さんらしき男性に声をかけようと席を立った。だが、そのとき、40代半ばくらいの背が高く美しい女性に呼び止められた。
「失礼ですが、彩子さいこさんですか?」
 彼女の後ろには、高校生くらいの活発そうなお嬢さんも控えている。
「はい」
「突然申し訳ございません。川嶋稜央の母です。こちらは妹です」
 妹さんが、ぺこりと頭を下げる。
「はじめまして。吉井彩子です。稜央くん、本当に素晴らしかったですね」
「ええ。稜央から聞きました。彩子さんご夫妻と先生に、何から何までお世話になったそうで、本当にありがとうございました。何と御礼を申し上げたらいいか……」
「お礼を申し上げるのは私どもです。稜央くんには遠方からお越しいただいた上に、大きな負担を掛けてしまって申し訳ございません。香川先生も夫も、稜央くんと素晴らしい経験をさせていただきました」
 お母さんは潤んだ瞳で訴える。
「とんでもございません。あの稜央が協奏曲を弾ける日が来るなんて、夢のようです。そうよね、陽菜?」
「はい、あの無口なお兄ちゃんがオケと弾けるなんて驚きでした」
「本当にありがとうございました。これ、お口に合うかわかりませんが、先生と御夫妻で召し上がってください」
 お母さんは、エシレのサブレ缶がいくつか入った紙袋を差し出す。
「お気遣いなさらないでください」
「改めて稜央にお礼をさせますが、どうか皆様で」
「ありがとうございます。では、遠慮なく。稜央くん、楽屋にいると思いますので、ご案内します」
「ありがとうございます」

 2人を楽屋に案内し、川嶋くんを労ってから、急いでホールに戻る。だが、ロビーやホールの周囲、タクシー乗り場を走り回って探しても、お父さんらしき男性は見当たらない。

 お母さんと妹さんが、川嶋くんのお父さんと顔を合わせないで済んだことを思うと、これでよかったと思った。