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[連載コラボ小説] 「旅の続き」 2 

  本作は、mallowskaさんの作品 コラボ小説「夢の終わり  旅の始まり」の続編です。mallowskaさんの許可をいただき、may_citrusが書いてみました。週一で更新しますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

  扉写真は、きくさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


 
 2週間後の土曜日、フェルセン閉店後の店内に、悩ましいバッハが流れる。空には、凍えそうな繊月がぽっかりと浮かんでいる。

 川嶋くんが合宿にくる数日前、羽生さんの好意で、彼の娘さんが使っていた電子ピアノがフェルセンに運びこまれた。

 川嶋くんがグランドピアノでソロパート、香川先生が電子ピアノでオーケストラパートを第三楽章まで通しで奏でている。透と私は、川嶋くんの緊張がほぐれるように立ち合い、テーブル席で息を詰めて聴き入っている。

第一楽章 Allegro moderato
  合奏とソロパートが交互に現れ、悩ましく、厳めしい旋律が展開される。川嶋くんは、最初こそ緊張していたものの、曲に煽られ、気分が昂っていく。彼の音は粒立ち、透明感があり、バッハの紡いだ音楽を数式を再現するように弾きこなす。目を閉じると、音符の連なりが描く形が、脳裡に浮かぶ。執拗に繰り返す旋律の後で炸裂するトリルは、精度が高く美しい。
 川嶋くんの勢いは、オケパートを置いていきそうだが、香川先生が、大木のように力強く、安定した音色で合わせてくれる。

 第二楽章 Largo
 転調し、甘やかで悩ましい雰囲気に変わる。バッハ特有の美しい音楽が、オケパートの刻みに乗り、ゆったりと流れる。もう川嶋くんの世界だ。彼が紡ぐ甘い旋律は、誰かへの思慕を乗せているように響く。透の演奏を日々聞いている私は、彼ならどんなふうに奏でるかと思いを馳せてしまう。

 第三楽章 Presto
 再び短調に戻る。第一楽章と同じリトルネッロ形式で、ピアノソロと合奏が交互に出てくる。増していく勢いは、彼が胸に秘めてきた様々な思いを放出しているかのように響く。饒舌ではない彼は、思いを音楽に乗せて伝えることをふと思い出す。最後のエネルギーを解き放つ疾走で、粒だった音は時折乱れるが、増していく勢いがそれを相殺する。


 香川先生の音は、二つのアイデンティティの間で悩んだ末にたどり着いた深味のある唯一無二の音色だ。透の音は、奔放で華やか、透き通るような純粋さにあふれ、モーツァルトを彷彿させる。2人は、曲によって様相を変えても彼らの演奏だとわかる芯のしっかりした音色を持っている。

 川嶋くんの音に、そこまで強烈な個性は感じられない。
 だが、今日の彼の音色は、以前ガーシュウィンを奏でたときとはがらりと変わり、端正で精密なバッハだ。正規の音楽教育を受けていない彼は、先入観なしに楽譜と向き合い、再現しようとする純粋さがあるのだろうか。

 2人が弾き終えたとき、ふと時計を見ると、10分弱しか経過していなかった。クラシック音楽に精通していない私さえ、息つく暇も与えない濃密な時間だった。透に腕をつつかれ、練習を録画するために三脚に乗せていたデジカメを慌ててオフにする。


「お疲れ様。仕事をしながらなのに、短期間でよくここまで仕上げたね」
 香川先生は、川嶋くんの肩を優しく叩いて労う。先生の低く穏やかな声は、相手の心を解きほぐす力があったことを思い出す。

「ありがとうございました。あー、恥ずかしいです。どうにか、仕上がったばかりなので、どんどんダメ出ししてください……」
 興奮冷めやらぬ川嶋くんは、いろいろ思うところがあるようで、頭を抱えて俯く。

「うん。細かい部分は後で修正するとして、全体的な話を2つしておこうか」

「はい」
 川嶋くんが身構え、空気がぴんと張りつめる。
 誰でも、人に何か注意されるのは気分の良いものではない。
 彼の父親が発達障害のグレーで、彼もその傾向があるかもしれないと聞いたことが脳裏をかすめる。発達障害のADHDで、奔放さが強い人は、指図されることをひどく嫌うと聞いた。繊細で、強い自我を胸の底に沈めている川嶋くんが、ダメだしを受けてどう反応するか心配になる。

「まず、音量。川嶋さんの音は繊細で、澄んでいて、機械のように正確なところが多く、バッハ向きだ。けれど、タッチが強いほうではないから、オケ、この曲では弦楽器に飲まれてしまう可能性がある」

「はい。僕、コンチェルトは初めてなんです。オケの音をイヤホンで聴きながら弾くことはよくあったのですが……。実際に合わせると、迫力に飲まれてしまいそうです」

「私も初めてオケと弾いたとき、そのパワーに圧倒され、引っ張られてしまったよ。だから、さっき、敢えて、オケパートを大きめの音で弾いたんだ」

「ありがとうございます。次は、全体的に、もう少し力強く弾いてみます」

「うん。でも、決して無理はしないで。無理に鍵盤を強く叩くと、全体的に乱暴になってしまい、川嶋さんの良いところが台無しになってしまう。川嶋さんの澄んだ音色と、輪郭がくっきりとした正確な演奏は、バッハに最適だ。私は、それを前面に出したコンチェルトにすべきだと思う」

「あー、バランスが難しいですね……」

「うん。指揮者が気になれば、弦に音を抑えるよう言ってくれると思うよ」

「何か悪いですね……。僕のせいで」

「全然気にすることはないよ。いい協奏曲にするために、ソリストとオケが、互いに音を抑えたり、速さを調整したりするのは当然だ。指揮者やオケと、根気強く話し合って、試行錯誤することが必要だよ」

 川嶋くんが小さく息を吐く。
「実は僕、そういうの苦手なんです。コミュ症で、面倒になると、もういいと投げやりになってしまうことがあるんです……。じっくり話し合うより先に、行動に及んでしまうこともあって」

「わかるよ。私もその傾向があった。深いコミュニケーションには、辛抱強さが必要だよね。私は若い頃、随分失敗したよ。理想の音楽を求めすぎて、指揮者やコンマスとぶつかり、険悪になったことがある。今でも吹奏楽部員に多くを求めすぎて、関係が悪くなることもある。まあ、そんな苦労も、いい演奏ができたときに報われるよ。そうそう、フランス人のピアニスト ダビッド・フレイが、この曲を含むバッハのチェンバロ協奏曲をドイツのオケと収録するドキュメンタリーがあるよ。オケへの希望の伝え方とか、参考になることが多いと思うよ。今日持ってきたから、貸してあげるよ」


「ありがとうございます、是非。不安だけど頑張ってみます……」

「うん、私からも指揮者に言っておくよ。川嶋さんの演奏の魅力が伝わるように配慮してくれると思うよ」
 先生は任しておけと言わんばかりに微笑んだ。

「2つ目は、オケを置いていかないでほしい。特に第一楽章と第三楽章は、アップテンポだから、弾いているうちに、どんどん早くなってしまったよ。今回は私が合わせたけれど、市民オケは、技術が高いわけではないから、臨機応変に対応できない。そうなると、コンチェルトがガタガタになってしまう」

「難しいよね。俺も、気分が良くなると、暴走してしまうんだ。何か自分のことを言われているようだよ……」
 透が川嶋くんの気持ちを楽にしようとしてくれる。

「透が言ったように、川嶋くんだけのことじゃないよ。国際コンクールの中継を見ていても、その傾向がある人を見かけるよ」

 その後、2人は楽章が変わる際のつなぎの合図、要所のテンポを確認し、注意する事項を一つ一つ鉛筆で楽譜に書き込んでいった。

 最後に先生は、身体の使い方で大きな音を出す方法を教え、家で練習するよう伝えた。川嶋くんは、小柄な女性ピアニストが男性顔負けの力強い演奏をするYou Tube動画を食い入るように見つめ、腕や身体の使い方を確認していた。透や先生ほどではないが、川嶋くんも長身で、体格に恵まれている。アドバイスを受け、彼の音がどう変化するのか楽しみになった。


「いまは音量のことは考えず、私と合わせることを重視しよう。第一楽章からいこうか。テンポはこのくらい」

 先生が設定したメトロノームのテンポは、随分緩やかだった。

 テンポが緩やかになると、ソロと伴奏が協奏することで生まれる美しさや緊張感が際立ち、通奏低音のうごめきがくっきりと聴こえ、精巧な曲の骨組みが立ち現れる。体内の血管の流れまで見える人体模型を見ているようだ。よりバッハらしくなったと思った。

 川嶋くんの気持ちが昂りテンポが上がっても、技術的な難所でテンポが落ちても、先生は元のテンポを崩さない。ずれに気づいた川嶋くんが元に戻し、自分の癖を自覚するパターンで練習は進んでいく。楽器を弾かない私は、先生が指摘する微妙なずれがわからないことが多かったが、川嶋くんはすぐに反応し、一つ一つ修正していく。

 彼の演奏が良くなるたびに、バッハの音楽の構造が鮮明になる。何百年も演奏されてきた音楽には、それに値する価値があるのだと実感させられた。


                 ★
「そこ、どうしても速くなってしまうね。右手が第一バイオリンとユニゾンしていることを意識して、もう一度」

「はい」

 川嶋くんは、額にうっすらと滲んだ汗をタオルハンカチで乱暴に拭い、再び鍵盤に向かう。

 練習を始めてから2時間以上が経過していた。夜は更け、外はしんと静まりかえっている。
 香川先生は、第一楽章で合わない部分のやり直しを執拗に続ける。川嶋くんの顔には、焦りと疲労がにじんでくる。

「もう一度。このテンポを体で覚えて」

 香川先生は、メトロノームを十分に聞かせたあと、それに合わせて旋律を奏でてみせる。

「はい……」

 礼儀正しかった川嶋くんだが、時間の経過とともに、愛想が消えていく。嫌になると、投げやりになってしまうことがあると言っていたことを思い出し、先生が気を悪くしないか心配になった。休憩を入れようかと透に耳打ちするが、さっき入れたばかりだと制される。

「では、もう一度。何度も言うけど、ユニゾンしている私の音を良く聴いて、それに乗る気持ちで」

 川嶋くんは小さく頷き、鍵盤に向かう。苛立ちを抱えた彼が、いつ爆発するかと、私は気が気ではない。

「うん、さっきよりずっと合っていた。川嶋さんは耳がいいから、気づいただろう?」

「ええ」
 川嶋くんが、渋々頷く。

「ぴったり合うと、重厚なユニゾンができて、気持ちいいだろう?」 

 確かに2人の音が重なり、音が厚くなる。バッハの設計した音楽により近づいていくのが手に取るようにわかる。

 他方で、テンポを緩めたことで、当初の川嶋くんの勢いが削がれてしまい、小さくまとまってしまったことに対する寂しさが湧き上がってくるのを禁じ得ない。彼も同じ不満を感じ、それが苛立ちにつながっているのではないかと思った。

「じゃあ、第一楽章を通してみようか.」

「はい」
 2人が再び集中力を注いで鍵盤に向かう。

 バロック音楽によくあるリトルネッロ形式。主題の合奏とソロの交代が繰り返される。テンポを緩めたことで、2人の音がよく合い、最初よりずっと重厚に響く。旋律と伴奏がくっきりと聴こえることで、内に秘めた衝動が腹の中でうごめくような胸の高鳴りを覚える。なんて計算し尽され、美しい音楽なのだろうと背筋がぞくぞくする。

「すごく良くなったよ!」
 弾き終えた2人に透が大きな拍手を送る。私も彼に続く。

「うん。見ちがえたよ。よく頑張ったね」
 香川先生も川嶋くんを労う。

「ありがとうございます……」
 彼は憮然と答える。

「今夜はもう終わりにしたほうがいいんじゃないですか? 明日はお店が休みだから、一日中できるでしょう」

 私は移動の疲れを抱えている川嶋くんの身体が心配だった。そして、2人が険悪にならないよう、川嶋くんをクールダウンさせたほうがいいと思った。

「そうだな。明日は何時からにしようか?」


「あの……」川嶋くんが思い詰めた声で切り出す。

 私たちの視線が彼に集中する。私は空気が緊迫することを恐れながらも、彼が自己主張することを激しく期待していた。

「やっぱり、テンポ、少し上げたいです。そうすると、もっと自然に気持ちを乗せられる気がします」

 やはり川嶋くんは、先生が設定した緩やかなテンポにフラストレーションを感じている。彼は一歩も引かないと言いたげな眼差しで、先生を見据える。

 私は息を詰めて先生の反応を待つ。

「気持ちはわかるよ。川嶋さんはテンポを上げても弾けるし、気分も乗るだろう」

 先生の声は変わらず穏やかで、苛立ちは微塵も感じられない。一度言葉を切った先生は、感情を排したかのように淡々と言い継ぐ。

「けれど、私は2つの理由で賛成できない。1つは、弦メンバーの技術だ。彼らの技術では、あまりスピードを上げるとついてこられず、ずれまくって、協奏曲にならない。2つ目は、それとも関わるが、川嶋さんが望むテンポにしてしまうと、バッハが書いた美しい旋律やハーモニーを十分に聴かせることができない。バッハのチェンバロ協奏曲はグレン・グールドの録音が有名だが、彼も君より緩やかなテンポで演奏しているだろう」

 先生は、電子ピアノに向かい、美しいパッセージを演奏した。
「例えばここ。川嶋さんは、テンポを上げたとき、指が滑って雑になってしまっていた。そうすると、せっかくのバッハの美しい旋律が聴かせられない」

 先生は緊迫した空気を和らげようと、少しおどけて続ける。
「まあ、この曲は本当にバッハの作曲かは不明だけどね」
 
「わかっています。バッハの美しさは……」
 川嶋くんはそういったあと、何かを飲み込んだかのように言葉を切る。

 先生の言うことは正論だ。だが、私は、彼の胸に燻るものが心配だった。このままだと、彼はのびのびと演奏できない。私が口を開くより先に、透が静かに話し出した。

「譲治、少しテンポ上げたら? 川嶋くんの端正な演奏は、少し速度が上がっても崩れないよ。気持ちを乗せられるなら、そのほうがいい」

「ふむ」
 先生は長い腕を組み、少し思案した後、割り切ったように頷く。
「では、これくらいはどう?」
 先生はメトロノームを調節した。

「大丈夫です」
 川嶋くんが力強い声で答える。

 再び連弾が始まる。川嶋くんは、注意された箇所で指が絡まないよう、雑にならないよう、細心の注意を払っている。計算し尽されて並べられた音符が、何かを執拗に訴えかける。テンポが上がったことで、訴える力がより強まった気がする。

「うん、いけそうだね」
 弾き終えた香川先生は、口角を持ち上げて笑みを見せる。
「1楽章と3楽章は、このくらいのテンポでと、指揮者に伝えておくよ。オケとやってみて、合わないようなら、前のテンポに戻してね」

「わかりました。ありがとうございます」
 川嶋くんは、相当気が張っていたようで、崩れ落ちるようにピアノ椅子に腰を下ろした。

「川嶋くん、よく頑張ったわね。自分の考えをしっかり伝えていたね」

「テンポが少し上がっても、バッハらしさは健在だ。きみがバッハに敬意を払っているのがよくわかるよ」
 先生の言葉に、川嶋くんは照れたように俯く。

「ところで、川嶋くん、きみはどうしてテンポを上げたかったの? どんな気持ちを乗せたいの?」
 透が興味津々という様子で尋ねる。

 川嶋くんは、口ごもった後、低い声で切り出す。
「個人的な話なので、お話しすべきではないとわかっているのですが、父への思いをこの曲に乗せたくなったんです……。最初は、バッハが構築した世界に感動し、正確に再現することに集中していたんですけど……。弾いているうちに、この音楽に父への思いの変化が重なっていって……」

「お父さん?」
 先生がかすかに眉を上げる。

「川嶋くんも俺たちと同じで、母子家庭育ちだ。実のお父さんは、ドイツで別の家庭をもっているそうだ」
 透が言い添える。

「どういうことだい?」
 先生が尋ねるが、川嶋くんの顔には、ためらいとも戸惑いともとれる表情が浮かんでいる。

「皆さん、お疲れでしょうから、その話はうちで飲みながら聞きませんか? お酒が入れば、川嶋くんも話しやすくなるんじゃない? 先生も、今夜は泊っていってください」