芸能人へのバッシング

 昨今の、違法薬物の使用や、不倫などをした芸能人への激しいバッシングにウンザリしている。
 私たち部外者は、その人のその行為によって、何か著しい迷惑を被ったのだろうか? 確かにパートナーは傷ついたかもしれない。ファンは驚いたかもしれない。しかしだからといって、一人の人間を徹底的に叩きのめしていいことにどうしてなるのか?
 こうした行為には、恐らく、「憂さ晴らし」をしているという面もあるのだろう。現代は、精神が荒むのも無理もない時代であるが、しかし自らのそれをこんな形で露わにして、みっともないと思わないのだろうか?
 たった一人の人間に向けて、大勢の人間が石を投げているという光景は、いかなる理由があるとしても野蛮で醜悪なものである。
 しかも、こうした芸能人叩きを煽っているワイドショーなどは、昨今の政治腐敗をあまり正面から批判しない。私たちの生活に大きく関わることに携わっている権力者は、疑惑を有耶無耶にしても、成果を上げていなくても、権力を私物化していても責任を取らずに済んでいるのに、芸能人であると同時に一市民である人間が、私たちに全く影響を与えない過ちによって過度のバッシングを受け、映像作品への出演が中止になったり、SNSのアカウントの削除に追いやられたりして、社会から抹殺されているというのは、異様な状況である。

 それらのバッシングの中には、「そういう人だった」という言い方がしばしば見られる。しかし、たった一つの面だけが、その人の「本質」を決定づけるのだろうか? 人間は、そんなに単純なものなのだろうか? たった一つの行動がその人のすべてを表すというような、ある意味で本質主義的な考え方は、正しいようで、実は不寛容と表裏一体である。例えば自分が「優しい」と感じている人がいたとする。その人が、何か誤った言動を一度してしまっただけで、その優しさは「偽り」になってしまうのだろうか?
 また、違法薬物を使用していた俳優への批判に「薬物を使っていたからあの演技ができたのではと思ってしまう」というものがあったが、「表現」への無理解を反省されたい。
 平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』のなかで、ラドスワフというポーランド人が、「我々が刻一刻と経験する人生が、すべて、我々の人間性に対する試煉であるという考え方は、私には過酷に感じられます。人間が試みられるという発想は、悪魔的です」と言っている。今の日本社会が耳を傾けるべき言葉だろう。

 こうした不寛容は、今日、著名人へのバッシングに留まらず、至る所に広がっており、それは、芸術や表現の世界にも影響を与えるだろう。芸術はなるほど、現実を忘れさせ、非日常を体感させてくれるものであるが、現実の世界のこうした不寛容さは、芸術の生まれるところである人間の内面を疲弊させ、表現や才能を萎縮させるだろう。
 しかし、現実の世界に変化や影響を与えうるのもまた、芸術や優れたエンターテイメントである。私は、今日の状況を悲観する一方で、芸術に携わる者の端くれとして、芸術を愛する者として、その力に希望を見続けたいと思っている。    

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