見出し画像

死なないこと

祖母、父、母と家族のことを書いてきました。
細かいことはもっとあるけれど、ひと通りのことを書き終えました。
母をなくした後、次にいなくなるのは兄かと思っていましたが、その気配なく数年が過ぎたことから、きっと私の家族はひどい時代を潜り抜けて生き残ることに成功したのでしょう。
次に書くなら兄か自分のことになりますが、まだ生きている人のことを書くのは憚られるので、この後は私が昔を思い出したり最近気づいたりしたことをぽつぽつと書いていこうかと思います。

私は10年結婚生活をして、11年目に離婚しました。
当時母には、「10年我慢できたんやから、もう離婚なんかせんでもいいんと違うん?」と言われて返す言葉が出て来なかったことを憶えています。
10年が限界でした。
それ以上は無理だと思ったからした決断で、そうせざるを得なかったことの一端は当の母にあったのです。その母の口からそう言われ、唖然として何も言えませんでした。
10年になるより前に、私は心療内科にかかって抑うつ状態で薬を処方されるようになっていましたが、私はそのことを家族に隠していました。通っていたクリニックは他にもいくつかクリニックが入るビルの中にあり、私は家族にその中の婦人科に通っていると偽って伝えていました。処方されている薬はダイニングのサイドボードの引き出しに入れていましたが、誰もその中身を疑ったり確認したりすることはありませんでした。
心療内科では薬に頼るよりカウンセリングがよいと勧められましたが、特にここと言われることはなかったので、自力でカウンセリングができるところを探しました。
心療内科と同様に、家族にバレないことを基準に探したカウンセリング専門会社は、当時仕事でよく通っていた駅の傍にありました。
初めてカウンセリングを受けた時、カウンセラーは私に「よくここまで生き延びてこられましたね」と言いました。
確かに、死にたいとか死にそうだとか思ったことは何度もありましたが、私には自死を選ばない理由がありました。
一度真剣に死ぬことを考えて、それでも死ねなかったので、以来自死を考えることはしないと決めていたのです。

私が自死を考えたのは、小学校高学年の時でした。
5年か6年か学年ははっきり憶えていませんが、その時の自分の雰囲気は憶えています。心象風景というのでしょうか。とにかく暗いところにひとりでずっといるような感覚でした。
私の家族は私が小学校3年になる時に引っ越しをして、それまでの校区から離れた場所に行きました。その時兄が小学校6年だったので、最後の1年だけを別の小学校で過ごすのは可哀想だと思った両親は兄だけでなく妹の私もまとめてもとの小学校に籍を残し、1年間越境通学をさせました。
1年後に兄は引っ越し先の校区の中学校に進学し、私は小学校4年からやはり引っ越し先の校区の小学校に転校しました。引っ越し先の隣近所には同学年の子どもが他に2人いましたが、どちらも引っ越しと同時に転校していたので、私だけが近所で転校し遅れた形になりました。
新しい小学校は前の小学校とはまるで違う校風で、もっと言えば家の近所も引っ越し前の環境とは大きく違っていました。のんびりした雰囲気の中で小学校3年までを過ごしていた私は、周りの変化を感じ取って動くことができませんでした。学校では変な行動をする転校生としていじめの対象になり、帰宅すると近所の同級生の仲間には入れてもらえず、両親は仕事で夕方遅くなるまで留守で、兄は放課後のクラブ活動に励んでやはり留守でした。祖母も同居していましたが、両親とともに工場に出勤し、夕方以降に帰宅していたので、両親と同じで日中はいませんでした。私は毎日ひとりぼっちでした。
しかし、両親・祖母・兄は家にいてもいなくても、誰も私の日々の不安やいじめの相談相手にはなりませんでした。
父は仕事が軌道に乗り始めて家庭のことは母まかせになっていました。
祖母は黙って話を聞くくらいでしたが、私が祖母と仲良くすることを快く思わない母の策略で段々と私は祖母に距離を置くようになり、そのまま祖母は長男である伯父の家に転居していきました。
兄はそもそも妹を気に掛けることがありませんでした。新しい環境に素早く馴染み、友達付き合いとクラブ活動に精を出していました。
頼みの綱は母でした。ある時私は母に、いかに学校の居心地が悪く、怖く、不安だらけか、行くのが辛いかを泣きながら訴えました。どんな具体的な方法があるかはわからないけれど、とにかく助けて欲しかったのです。頼れるのは母だけでした。
しかし母は、そんなことを言われてもどうしようもできないと答えるばかりでした。
意を決して母に訴えたのに、助けてもらえるどころか逆に困らせてしまい、私は自分などいない方がいいと思い始めました。
この時、自死を考え始めたのです。
手首を切るか飛び降りるか飛び込むか。
どの方法がいいかを考え、また、そうした時にどんな影響が残るかを考えました。
何日も何日も悩み、考えました。
そしてついに出した結論で、私は自死を諦めました。
そもそもダメな自分がいては両親に迷惑をかけるからというのが自死を考え始めたきっかけですが、自死をしたら両親が悲しむだろうと思ったのです。
ダメな自分がいなくなれば、親が喜ぶと思う方が自然な気がしますが、その時の自分は自分の死が親の悲しみになると信じていました。
そして、散々考えて自死を諦めたのだから、今後同じことで悩まないと決めました。
この決断があったから、この後の人生で私は二度と自死を検討することはなかったのです。

私が中学生の時、兄がいわゆる非行に走り家の中が落ち着かなくなりました。更に私が高校生の時、家計は急激に傾き父が最初の蒸発事件を起こします。
そこそこ仲のよい「普通の家族」と信じていたのに、そうでない現実を突きつけられた私は呼吸器の疾患を起こして息が上手く吸えていないと感じることがよくありました。そんな時自分はもうすぐ死ぬのではないかとひとりきりの部屋でよく思いました。
しかしそんなことはなく日々を過ごし、やがて学校を卒業し就職し結婚、出産を経験していくのですが、生きづらさはどんどん大きくなっていき、死にたい気持ちも消えることはありませんでした。
自死しないことを決めていたのでそのような行動には走りませんでしたが、道を歩いていてよく「あのトラックがこっちに突っ込んできてくれないだろうか」と考えました。あわよくば何かの事故に巻き込まれて死ねればと、そんなことばかり考えていました。
今よりよい人生を望んで就職し、首切りに遭い、今の家族からの離脱を望んで結婚したのにそれまでの家族とのしがらみは残ったまま新しい家族との難しさまで抱えてしまい、そこから逃れるには誰かに殺してもらうしかないと思っていました。
生まれた子どもには申し訳ないけれど、親や夫は悲しむかもしれないけれど、自分でやったのではなく人に不意に殺されるなら仕方ないのだからと心の中で言い訳をしていました。
自分の人生の先は見えず、毎日の辛さだけが充満していました。
しかし事故にも事件にも巻き込まれませんでした。

私は次第に意味なく涙が止まらなくなり、食事が喉を通らなくなり、謎の腹痛に悩まされ、心療内科にかかるようになりました。
更にカウンセリングにも行くようになり、自死していてもおかしくない状況を耐え忍んできたサバイバーである自分と対峙することになります。
心療内科からもらった薬を飲みながら、カウンセラーに日々のことを聞いてもらい、現状を打破するための準備を始めました。
それは、自尊心を取り戻す、自分を大事にして生きていくことの練習でした。
離婚し、母と離れ、子どもを手放す寸前までいきました。子どもを手放すには至りませんでしたが、他の家族親戚とは絶縁することになりました。
友達づきあいはもともと少なく、結婚・出産を経ていたのでなおさら家族親戚以外のつきあいはほとんどありませんでした。
SNSの波が押し寄せ、インターネットを通じて友人関係が一気に広がった時期もありましたが、揺り戻しがあって結局少数の友人との関係を深める方向に転換しました。
家族は自分と子どもだけ、親戚は従姉と叔父のふたりのみにたまに連絡するだけ、友人は信用できるひと握りだけ、そんな小さな輪の中でひっそりと暮らすようになったある時、ふと自分の感覚が変わっていることに気づきます。
自分の人生が、50歳、60歳までも続くという感覚が芽生えていました。

自死しない、という簡単な決めごとがあったから、死なずに生きてこれました。
いろんな複雑なこと、難しいことは沢山あって、今もまだ残っているとは思いますが、この簡単な決めごとは簡単であるがゆえに誰にも邪魔されず、見直されず、声高に主張もせず、隠れることもなく、私の人生を伴走してきました。
ただ死ななかったから、生きてきたし、これからも生きていくんだろう。
生きていく上で大事なことは、案外こんな、簡単なことなんだろうなと思うのです。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?