母のこと #3 結婚して大阪へ・お姑との関係・ご近所・同窓生

母は結婚して、丹後から大阪に出てきます。
田舎から都会へ出てきて、友人もなく嫁ぎ先の家族親戚に翻弄されていたようでした。

結婚して大阪へ

母がお見合い結婚をしたのは、多分23歳くらいの頃だったと思います。
親戚か何かから来た話で、一度は破談になりかけたのですが、結局まとまりました。
その辺りの過程について詳しくは聞いていないのですが、昔の縁談では必ずいちゃもんをつけてくる親戚がいたそうです。お約束っぽく。
母は結婚と同時に知る人がいない大阪に出てくることになる結婚について、どのように思っていたのかは聞いたことがありません。ただ、父は自分の思い通りになる、おとなしくて田舎者のお嫁さんが欲しかったのだろうと自虐的に語っていました。

従姉からの情報によると、母はお料理がとても得意という触れ込みだったそうです。
ある時母の作るご馳走を食べるために父とそのきょうだいと家族が勢ぞろいしたことがあり、食卓で座って料理が出てくるのを待つのですが、いつまでたっても母は台所にこもっているばかりで何も出てこなかったそうです。
随分待ってやっと出てきたのはスープだけ。
どんな凄い料理が出てくるかと期待していたので、みんながっかりしたそうです。
母は田舎の小学校で給食を作っていただだけでしたから、なぜそんな豪華な料理が作れる人と思われていたのは謎ですが、どうも父がそのように吹聴していたようです。そもそもはもしかしたらお見合いの仲人さんなのかもしれませんが、母にすれば迷惑な話だったことでしょう。母は台所でどんな思いでスープを作ったのでしょうか。

お姑との関係

母は末っ子のお嫁さんになったので、普通であれば嫁姑の関係でそれほど悩むはずはないのですが、父は上のきょうだいが次々に独立して最後に家に残っている状態で結婚したので、母は24時間姑と過ごすことになり、その関係に悩むことが多かったと聞いています。
まずは、【祖母の宗教について】
結婚する際に、母はその宗教とは関わらない約束だったそうですが、何らかの形で勧誘するか活動への参加を求められることがあったようです。腹を立てた母は子供を連れて勝手に帰省することで抵抗を示しました。以後、同じことはなかったようです。
しかし、祖母は毎月家でお祭りのような行事を行っており、それに参加する来訪者に食事を出して接待することからは逃れられませんでした。
また、子供である私と兄は、夏休みに行われる宗教団体主催の子供向け行事に何度か参加していますので、子供をそこに連れていかれることも快くは思っていなかったでしょう。
【父と祖母の繋がりについて】
母から見て、夫である私の父は、祖母の最愛の末息子でしたから、それを母と祖母が取り合うような形になっていたのかと推測します。祖母は父の独立後にその仕事を手伝い、母は主婦業に専念することで家庭内のすみ分け(?)をして折り合いをつけていたようです。(ただしそれは、母が父の仕事の手伝いに駆り出されたり、祖母が仕事の手伝いを引退する流れの中で崩れていきます)
【お金のことについて】
独立後の父はなかなか収入が安定せず、よく母親である祖母にお金を借りていたので、母は祖母に頭が上がらないのがイヤだったと聞いています。お金を借りることもそうですが、お金の使い道についても祖母は細かくチェックしていて、何にいくら使ったという記録をノートに書き留めるのが常でしたので、母はそれを知っていて、監視されているような気分だったことでしょう。祖母は母に対して「大きな金額だ」とか「自分ならそんな買い物はしない(そんな金額は出さない)」というような言い方をして、母の家計管理を批判しました。母はカレーと肉じゃがには牛肉を使う人なのですが、それについても祖母が贅沢だと言っていたと愚痴っていました。
【台所その他の家の中のことについて】
祖母は息子夫婦が寝起きする家の二階には来ませんでしたが、一階はどこでも出入りしていたので、台所も使えばそれ以外のところも使い、あちこち共同で使うので、もののしまい方や使い方で衝突することがとても多かったようです。母は財布を隠されたというエピソードを繰り返し語っていました。お金に困っていた思い出と相まって、財布を隠されて困ったことは忘れられない出来事だったのでしょう。祖母は財布を探し回る母にひと言もなく、見つかってから置き場所が悪かったから移したと親切めかして言い、謝らなかったそうです。
家族で遊びに出ても祖母は同行しないことが多く、疲れた母が夕飯を外食したいと帰り道で父に行っても、祖母の食事をどうすると言われ、帰宅して料理をしなければならなかったという話もありました。
とにかく祖母は母にとって、生活全般の枷のようなものだったのでしょう。
しかし、母が祖母と正面きってケンカや言い争いをしたということはありませんでした。(あくまで私が知る範囲で、ですが)

ご近所

母がよく付き合っていたご近所さんは、家の両隣りとお向かい、いつも行く美容院、美容院の並びの本屋さんです。家が隣りとかお向かいとかはつきあいがあって当然ですが、美容院は自分が通うので自然とよく話すようになり、本屋さんのご家族はもともと父がよく通っていたことから母も親しくなったようです。父は母に、あまり自由にあちこちへ外出するのを好まなかったので、母の大阪での交友関係はひどく狭いものでした。携帯もスマホもメールもなかった時代で、物理的な動きを制限されていた母は、自分の生活圏の中かそれに極近いところで少数の人と付き合うことに終始しました。嫁ぎ先の文化と父の意向のために、母は家族親戚以外で仲良しの友達を作ることに消極的になっていて、この傾向は母が父の仕事の手伝いをやめるまで続きました。

同窓生

母の郷里の丹後から大阪に出てきた同級生が大阪北部の高槻市に住んでいたので、本当にたまにですが、訪ねていくことがありました。その時は私も一緒に連れていき、おしゃべりに花を咲かせていました。また、何年かに一度同窓会があると、それだけには積極的に参加していました。ただそれも、父の仕事の手伝いに駆り出されて多忙になると行きにくいし、暇になってくると稼業が傾いている状況なので肩身が狭く、晴れやかな気持ちで参加することはそれほど多くなかったでしょう。晩年には敢えて参加を見送ることが段々と増えていきました。


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