見出し画像

心理的安全性

あの時、この言葉があったらなぁと思うことがあります。
心理的安全性
この言葉がそのひとつです。
職場における話題の中で登場することが多い気がしますが、生活全般に関わるものですよね。

長い間自分の家族は仲が良く、自分は家族に可愛がられているという幻想の中で育った私ですが、一方で家族とは一番気を遣わなければならない人達という認識を持っていました。
家の中では、誰かに嗤われたりバカにされたりしないかいつも緊張していましたし、何かをするにつけ文句をつけられないかびくびくしていて、そのうち何をするにも「これをしたら何を言われるだろう」と考える癖がついてしまい、頭の中が心配と言われるかもしれない誰かの文句でぱんぱんになる始末です。
いわゆる「心理的安全性」が保障されない家庭で育つと、こんな風になるんですね。
この不安感、落ち着かなさをどうとらえて表現すべきだろう。
人に伝えようにも、どう言えばいいかわからない。
その状態で長く過ごしていましたが、最近それは「家庭内の心理的安全性が保障されない状態」という言い方で表現できるようになりました。
誰に伝えるでもないけれど、名前がつくとそれが扱いやすくなったような気がしてなんとなく落ち着く気持ちがあります。
名前がついてから、更にそれについて、怖がらずに考えることができるようになりました。
「心理的安全性」の反対はなんでしょう。
「心理的危険性」でしょうか。
心理的に常に危険にさらされて大人になった時、私はもう誰といても安全安心と感じることができなくなっていました。
誰かといると、気遣いをせずにいられないのです。
苦手や嫌いな人だと沢山気遣いが要ります。
仲のよい人とだと少しの気遣いで済みます。
しかし、気遣いをしないということはないのです。
例えそれが自分の子どもでも、結婚していた時の夫でも、気遣いなく話したり過ごしたりできるなんてことはありませんでした。
自分が安全で安心であるという感覚がわからないのです。
私が周りの人に気遣いをしないのは、意識をなくして眠っている時だけです。

こんな私なので、ケンカは苦手です。できません。
自分が思っていること、感じていることを素直に表現することは常に賭けです。気安く言っているように見えたとしても、心の中ではリスクを冒すストレスを感じています。できればリスクはとりたくない。
長くつきあっている友人にまでこんな自分でいることに、申し訳なさを感じて落ち込むこともあります。
でも最近は、仕方ないと開き直っていますが。

きっと自分は一生こんなんなんだと思うと、自分を育てた親には本当に何をしてくれたんだと思います。
そう思ったところでそれをどうにかすることはできないのですが、開き直った上で2つのことをしてそれにかえるようにしています。
1つは、子どもに安心感のある家庭を作ること。
もう1つは、そんな自分を理解して、自分で支えることです。

子どもは、離婚してから私ひとりで育ててきましたが、一時は手放すことを考えた程難しさがありました。母ひとり子ひとりで、他に頼れる人もなかったので、子どものひどい言葉を一身に受けてさながらサンドバッグ状態の時もありました。だから、随分落ち着いた今でも子どもには何を言われるかわからない怖さがあります。でも、子どもは私に好きなことを言ってもいいのです。子どもの親は私しかいないからです。

誰といても安心できない、落ち着かない私の事情に精通しているのは、他でもない私です。なので、私のしんどさを受けとめて、慰めることができるのも私です。いつだったか、「自分で自分の世話をする」というフレーズを知り、そんなことができるんだろうかと思ったのですが、究極にはそれをするのが一番手っ取り早いと今はわかります。
自分がしんどい時、自分に何を食べさせると元気が出るか、何を見せると元気になるか、あるいは何をやめさせれば休息がとれるのか、それを日々考えながら生活しています。
それが空しい時期をありました。今でもたまにあります。
本来は信頼できる他の誰かにしてもらうことではないのか。そんな誰かがいない自分はどうなのか。
でも、そんなことももう言ってもせんないことです。
意味はないのです。
自分で自分の世話ができる、自分で自分を機嫌よくすることができる、それは立派な力だなと思う今日この頃です。

過去は変えられないし、過去に形づくられた自分を改造もできないし、じゃあ今からできることはなんだろうか。
カロリーを気にしつつもプリンを食べさせてあげることとか。
そんな小さなことの積み重ねで、一日一日を生き延びるのです。
私にとっては、食べたいプリンを手にしてちょっと笑って今日を過ごせることが正義なのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?