母のこと #22 変化の流れ

あまり楽しい内容ではないけれど、覚書として母が変わっていく様子を書き留めておきます。
母の変わりゆく姿は、私が初めて間近で見た「老い」でした。
(前の記事とかぶる内容もあります)

最初の気配

母の老いを最初に感じたのは、まだ4人暮らしをしていた時でした。
母は仕事を引退し暇になり、手慰みにまた洋裁をやりかけていた頃です。
私がまだフルタイムの仕事ではなかったので、朝一緒に近所の喫茶店にモーニングセットを食べに行ったり、時々日中も遊びに行ったりしていました。

この時期に、母は自分で考えて何か行動を始めるということが殆んどなくなりました。人に指図をしたり文句を言って動いてもらおうとしたり、人の行動に便乗することが増えていきます。
私が早朝ウォーキングを始めると、真似をして自分もやると言い出しました。娘と一緒に歩きたい雰囲気を出していましたが、運動したかったのか娘との時間が欲しかったのか、目的は曖昧に見えました。そして、そのせいか長続きはしませんでした。
娘が映画を観にいくと言うと、一緒についてきて一緒に観るのですが、映画の内容がわからなかったと文句を言いながら、実は帰りに喫茶店に寄ることが主目的だったのではと思える様子でした。ちなみに、母が見てわかならないと言っていた映画は「ダ・ヴィンチ・コード」でした。

その後に私の仕事が忙しくなり、家を空けがちになるに従い、母は苛ついて文句が多くなっていきました。
私がいないと、家事・育児を当時の夫に任せることが増え、そのことが母の不満の種になりました。
母はすでに日々の生活の中の変化に慣れず、嫌うようになっており、それまでと違うもの、ことについて、すべからく不満を抱くようになっていました。
私が不在で母の相手ができないことが不満でした。
代わりに夫が作る料理が不満でした。
また、夫が孫の世話をちゃんとしていない(と思える)ことが不満でした。
そもそも娘の私が働かなければいけないのは、娘婿の甲斐性がないからだとして、娘婿に対しての不満を募らせていきました。
次第に娘がいる時も険しい表情を見せるようになり、ここぞとばかりに娘に当たり、娘が作った食事をとらずに部屋に閉じこもるようなことをし始めます。私は母の食事をお盆に乗せて部屋の前まで運び、食べて欲しいと懇願することが何度もありました。
また母は、これ以上この家にはいたくないので自分が所有する軽自動車で寝泊まりすると言い出したり、不動産屋に行って別の家を探す、明日行ってくるなどと言い、娘の私がそれを止めることが繰り返されました。
私があるプロジェクトに加わり極度な長時間労働をする羽目になった際には、母は怒りを爆発させて娘婿と大喧嘩をしました。
娘婿もこれには腹を据えかね耐え難かったらしく家を出て外で大声を上げていましたが、母は自室に閉じこもってなかなか出て来ず、孫はすっかり怯えて布団の中で震えていました。
この大喧嘩で、私は母と夫の同居はこれ以上無理だと悟りました。
物事は当事者より傍観者の方がよく見えていることがありますが、この状況について行きつけの美容院の美容師さん達は単に母が娘の私に甘えているだけだとシンプルに分析していました。当時はよく理解ができなかったのですが、今はその通りだと思います。

当時住んでいた家は、母が(父の保険金で)頭金を出していましたが、娘婿の名義でローン支払いをしていたので娘婿の所有でした。
そこから娘婿を追い出すことはできませんでしたから、歩いてすぐの場所にあるワンルームマンションを契約し母を住まわせることにしました。
契約にかかる経費は私が出しましたが、必要なものの購入と月々の家賃は母が持ちました。母はそこで寝起きして、食事や洗濯はもとの家に帰ってきてやるという生活になりました。
夕食が遅くなると、会いたくない娘婿に会うかもしれないからと、母は夕食の時間をいつも気にしていました。
一方で、狭いワンルームに暮らすことの不満もありました。
この時はまだ母の体調に大きな変化はなく、気持ちの問題で自分と周りを振り回していました。

認知症を疑う

私が離婚を決意し、子どもと母と三人で生活するために別の賃貸マンションに引っ越すことにしました。
いろいろと重なっていたせいか引っ越しのことについての記憶はあまりなく、唯一憶えているのは母が足をくじいたことです。
引っ越しの荷解きはしんどいもので、すでにあまり体力がない状態になっている母には無理にそれをしないように伝えていたのですが、娘の言うことを無視して母はずっと手を動かして荷解きをし続けました。空になったダンボールを畳んでマンションの下に持っていって階上の部屋に戻ろうとした時、疲れて階段を上手く登れなくなった母は倒れてしまったのです。
多分2、3段上がったところから下の踊り場に落ちた状態と思われました。
その日は日曜日で、整形外科病院は診察をしていません。
慌ててとりあえず整骨院に連れていき、翌日更に整形外科に行きました。骨折までにはなっていませんでしたが、母は痛がって松葉杖が欲しいと言いました。
しかし、母は折角借りた松葉杖を全く使うことができなかったのです。
足と杖を、どうやって順に前に出せば上手く歩けるのか、全然わからない様子でした。
この頃から母は、私が言うことを聞き入れないことと、今までできていたことができなくなることが増えていきます。

・運転
車の運転は、殆んど私が代わってやるようになりました。
横で見ていて、加速と減速のタイミングがずれて危ないと思うことが増えていたのと、周りが見えていない様子からそのようにしたのですが、母は運転の機会が減ったので下手になったと言い訳をしていました。

・料理
料理自慢で鳴らした人でしたが、料理もできなくなっていきました。
引っ越し前からガスコンロの火の消し忘れを何度かしていて、当時の夫が怖がってIHヒーターを導入したりしていましたが、この時期はそれ以上でした。
調理に使うボールや鍋の適当な大きさがわからなくなり、中に材料をつっこんだけれど混ぜることができなくなり、それでも調理を強行すると材料がこぼれてしまって、どうしていいかわからなくなってしまいます。
そのうちに調理方法がわからなくなり、あんなに作ったポテトサラダをどう作るかわからなくなったと調理の途中でそのまま放置してしまったり、作っても味付けが明らかにおかしくなってできあがったりします。
仕事から帰った私がやり直したり掃除をしたりする手間がどんどん増えていきましたが、近くで見ずに話しだけ聞いていた丹後の叔母は、私がもっとやらせないから忘れていくのだからもっとやらせるようにと言ってきました。とてもその通りにはできませんでした。
母がひとりになるお昼のごはんは、冷凍のチャーハンやピラフをレンジで温めて食べてもらうようにし、母もその方法を歓迎しました。
夕食は私が帰るまで待ってもらい、私が作るようにしました。

・飲食
食べる方も下手になり、お味噌汁を飲もうとして汁椀を掴み損ねてこぼすことが増え、持ち手があるプラスチックの汁椀を探して母用にしました。
夕食材料の宅配サービスを利用し、決まったメニューで出すようにしていましたが、それまでの食生活にはないメニューになるとあからさまに嫌な顔をして拒否するので、そんな時は別のメニューを用意しなくてはなりませんでした。
母の生活全般で慣れないものを楽しむことはなくなり、できる限り回避しようとしていました。

・お金の管理
家計の管理は私が結婚した時点でしなくなっていた母ですが、自分の貯金が銀行と郵便局にあり、時々お小遣いで使う分を出しに行ってました。
また、孫の入学祝いなど慶弔のお金も自分で出す分を用意し、祝儀袋を用意して筆ペンで練習をしながら表書きをしていました。
ある時母が、常にすべての通帳とハンコを携帯して外出していると知り、私は母が自分で自分のお金を管理することができなくなっていることを悟りました。
危ないから私に管理させて欲しい、必要な時は代わりに私が必要な分を出して渡すからと話すと、母はあっさりと私に自分の財産である通帳とハンコを渡してくれました。むしろ、そうなって楽になったとでもいうような顔をしていました。

・旅行
お盆とお正月には丹後に母を帰省させ、私も子供もそれに同行しますが、ある年の5月の連休に、市内のホテルに泊まりにいきました。
一泊してチェックアウトの時間までホテルをのんびり楽しむつもりでしたが、母はしきりに早く帰ろうと言います。
自宅以外では落ち着いて過ごせなくなっていました。

・失禁
母は食事の際に小さな缶ビールをひとつ飲むのを楽しみにしていました。それより多く飲むことはあまりありませんでしたが、そもそも若い頃は父と一緒に飲み食べするのが好きな人だったので、お酒を飲むこと自体は好きでした。飲んで吐くことはなく、多少陽気になることはあっても泣いたり大笑いしたりすることもありませんでした。飲んで乱れることはなかったのです。
しかしある時、家族旅行でいつもより随分量の多い夕食を食べビールを飲んだ母は、上機嫌で食後に部屋に戻ろうとしている途中で失禁してしまいます。大人の尿の量は多いので、来ていた下の服をかなり濡らしてしまいます。着替えがなかったのでホテルの人と対応にバタバタしました。
母の失禁はその後徐々に頻繁になっていき、酔っていない時でも大笑いした拍子に漏らして床を濡らすようになります。
当時まだ小さかった孫(私の子ども)は母親の苦労がわからず、面白がってわざと母を笑わせて失禁させ、その後始末を私がすることが重なります。孫は、よく自分をいじめる祖母を軽く困らせるくらいのことしか考えていませんでした。
当の母は、大笑いの余韻か、恥ずかしいことをしたとてれ笑いをしているように見えました。決して深刻な雰囲気はなく、それまでならあり得ない事態になっていることをわかっていないかのようでした。
やがてついに、私は母におしめをして欲しいと話しをすることになりました。
通帳とハンコを渡すように話した時と似て、母はおしめのことにさほど抵抗を示しませんでした。
大人用のおしめを初めて選んで買い、家に持ち帰りましたが、母が入院することになりそれが実際に使われることはありませんでした。

・身なり
洋裁が好きでおしゃれな母でしたが、外出する際に何を着たらいいのか判断ができなくなりつつありました。
家にいる時はほぼ毎日同じ服を着ていて、出かける時は何を着るべきか娘に聞いてくるようになります。
化粧も下手になり、自分でするのですが、仕上がるとべったりとしていてピエロのようです。私がどうにかして修正する必要がありました。

・感情、言動
この頃から母は頻繁に、「もう我慢したくない」「考えたくない」ということが増えていき、以前より更に感情的な言動、行動をするようになっていきます。
ゆっくりと話して、「わかった?」と最後に聞いて、「わかった」と答えてもしっかりと理解はしておらず、兄が来たら私がこう言っていたと伝えますが、それについて兄が別の意見や提案をすると、今度は私に兄が言っていたことを伝えてきます。
母自身はどちらの意見についても理解をしておらず、どちらがいいとも判断できていない状態です。
もともと聡く口がたつ性格ではありませんでしたが、自分の意見は持っている人でした。しかしその時になると、自分がどうしたいとはっきりわかって言葉にすることは極端に減り、ものごと全般に対して見聞きして考えることを避けるようになります。
だからと言って母が一切の希望欲望をなくした訳ではなく、その表出との接続が悪くなったような印象でした。

認知症検査の結果

認知症センターで、認知症かどうかの検査を受けましたが、母が認知症であるという診断は出ませんでした。
出た診断は、老人性うつ でした。
抗うつ剤を処方され、それを飲みながら様子を見ていこうということになりました。
認知症センターは家から少し離れていたので、家の近くの診療内科に転院させてもらい、そこに通うことになりました。
母はすでにひとりで通院することはできず、必ず私の付き添いが必要でした。処方された薬は自分でちゃんと飲めているか怪しく、毎日ではありませんが訪問看護士に来てもらい服薬管理の手伝いをしてもらいました。

・三輪車
自動車の運転は控えてもらい、更に自転車にも乗れなくなって、それでは不便だろうと後ろが二輪になっている大人用の三輪車を購入して乗ってもらおうとしました。後輪が二輪になっているタイプでしたが、曲がり角で後輪を角にひっかけて進めない姿を見て、その三輪車でももう運転はできないということがわかりました。

・ウォシュレット
トイレでの始末が上手くできないと本人が自覚して、ウォシュレットをつけて欲しいと伝えてきました。これについては本人からのはっきりした希望があり、洗浄だけでなく乾燥もできるタイプがよいとの意向に沿って選んで設置しました。

・ベッド生活
部屋で灯りもつけない暗い中、ベッドの上でじっと新聞を見ている(読めているのか定かではない)ようになり、何度電気をつけて読むように言っても直りませんでした。
次第にベッドから起き上がるのも億劫という様子になり、訪問看護士さんにせめて椅子に腰かけるように度々言われていました。
寝たきりにならないようにとデイサービスの利用も契約しましたが、全く気乗りはしない様子でした。やることがないから仕方なく行くが、本当は私が家にいて世話をしてくれるのがよいと言って憚りませんでした。

介護認定

母は同居の孫を可愛がって世話をするということはありませんでした。
母と子供を連れて家を出た私が家計のためにフルタイムで働いている間、家では母とその孫のふたりで過ごしますが、帰宅すると途端にふたりのもめごとの仲裁をしなくてはならないのが当たり前になっていました。母は、私のために孫に何かにつけて我慢して(母の基準での)よい子でいることを求めました。それに反発した孫が部屋に閉じこもって泣いているのです。
結局のところ母は、孫より自分に私の気をひきたいように見えました。それ以前と同じく家に私がいないことが不満で、私が家にいる時はなるたけ長い時間を自分の世話に費やして欲しかったのです。
母は孫と、私の取り合いをしているようでした。
朝一緒にモーニングセットを食べにいけないことや、在宅勤務制度がある会社に勤めているのにちっとも在宅勤務にならないことを度々愚痴っていました。
扱いかねる母のことを保健所に相談に行った際に、介護認定を受けることを勧められました。
認定を受けた結果は「要支援」で、その結果を受けて使えるサービスが訪問看護とデイサービスだったのです。
母は、慣れない人と応対する際に緊張し、いつもより元気に見せてしまう癖がありました。俗にいう外面がいいタイプです。そんな母ですので、母だけを見て認定してもらうと、介護も支援もいらないという結果になりかねません。私が母の様子を聞かれた時は、常に家族の困り感と母のできなくなっていく様子、できないその時の状況を正確に伝えるように努めました。
その後に入院し、入院中にまた認定時期が来たので、病院まで来てもらっての認定を行いました。病院にいる母はベッドで寝たきりでもなく、同室の人とのつきあいもあり、自宅で過ごしている時より随分元気そうになっていました。認定のためのヒアリングの際にも母は随分元気そうに振舞いましたが、私の話を聞いた担当者は、私の意見を全面的に採用するとのことでやはり支援が必要なレベルとの結果になりました。
加えて、うつ症状が重くなっているとの医師の勧めで、精神障害者手帳取得の手続きを行いました。
この手続くについて母は関知せずにいましたが、兄と叔母は驚いて受け入れを拒否しました。
すでに手帳は交付されていましたが、それが特に利用されることはなく、更新されることもありませんでした。

出ない診断

母の様子は変わりつつあったけれど、まだ入院には至っていないある時、丹後の叔母が京都市内のある病院で検査を受けるので、母も一緒に一度診てもらったらどうかと言ってきたことがありました。
母は手の細かい震えを訴えており、それは老人性うつでは説明がつきませんでした。甲状腺関連の障害も見つかりません。叔母はアルツハイマーを疑っており、その検査を勧めたのかもしれません。
しかし、何かがおかしくなりつつあるとの気配は認められるけれど、検査をしても決定的な数字が出ず診断はつきませんでした。
診断が出ず、手の震えの治療ができないことが、母のうつ症状をよりひどくしていたのかもしれません。

最終的に母は神経難病の1つであるとの診断を受けることになりますが、認知症状を伴うその病気がわかるまで何年もかかりました。
また、診断が出た時は治療法がないとわかった時でもありました。
難病は、治す方法がありません。
その症状の進行を遅らせることぐらいがせいぜいです。
母の様子がおかしい、すでにこれは介護だと私が思い始めてから、診断が出るまでは10年以上かかりました。
あちこちに検査に行き、それはまさにドクターショッピングと言われる状態でした。
若年性認知症であっても治療をして発症前に戻すことはできませんが、病名もわからない状態が何年も続き、その間に症状が進んでいくのは本人も周りも辛いことでした。症状がどのように進んでいくかもわからず、治る希望があるのかないのかもわからないままに日々を過ごしていくからです。
そのような状況の中、母は自分が生きる意味を見失っていきました。





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