母のこと #25 見送り

母の見送りのために、家族である私と兄の家族、母のきょうだいとその家族が集まりました。
それは、母に繋がる人が一同に会した稀な機会となり、同じような時はあれからは二度とありません。

通夜と葬儀


母がなくなったとの連絡は、施設の職員の方からもたらされました。
施設から連絡を受けた兄嫁が、職員の方に私への連絡を言づけたためです。
当時私は携帯電話を変え、兄や兄嫁に新しい電話番号を伝えていませんでした。兄嫁は職員から私の電話番号を聞かず、職員の方に連絡を頼んだのです。
連絡を受けた時、私は仕事中でしたが、すぐに帰宅しました。
施設からの連絡にどのように答えたかは記憶にありませんが、兄か兄嫁から連絡がくるはずなので、いつそれが来てもいいように喪服に着替えて待機していました。
しかし、その日のうちに連絡が来ることはありませんでした。
翌日になり母の遺体が安置されている葬儀会館に行き、兄や兄嫁、丹後から駆け付けた叔父(母の弟)、叔母(母の妹)夫婦と従弟(叔母の息子)家族らと合流しました。
兄嫁の母と、もしかしたら兄嫁の妹も来ていたかもしれません。
母は離縁していたので、父方の親類の姿はありませんでした。
母には同級生やマネキン時代の知り合いがいましたが、連絡先がわかる母の荷物がなくなっていたことと急だったために知らせることができませんでした。
母は病院でなくなったのではない為に、余計な手続きがいくつかあり、すぐに私のところに連絡がくることがなかったと兄から聞きました。
その時々で状況は違いますが、親に何かあった時は常に兄が連絡を受けて対応することになっていましたので、私は少し後から兄の話を聞くことになります。

その日はお通夜、翌日に葬儀ということになり、私は母の横で一緒に一夜を過ごすことにしました。
兄と兄嫁は一旦自宅に戻り、他の親戚はどこか宿泊できるところに移動しました。
夜に見た母の顔は安らかで、顔色も悪くなく、今にも目を覚ましそうでした。体には、私の結婚披露宴のために誂えた訪問着がかけられていました。

着物に強い執着を持っていた叔母が、母の着物を自分のところにすべて送るように言ってきたのは母が亡くなる前だったか後だったか記憶が定かではありません。
ただ、私は兄嫁の意向も確認し、礼服に当たる喪服や訪問着を選んで兄嫁に渡し、それをそのまま兄と兄嫁が叔母に引き渡していました。
この時母に訪問着を着せたのは叔母か、叔母に言いつけられた兄嫁のはずなので、それは母が亡くなる前だったのでしょうか。母が施設に入っていた頃でしょうか。
着物はすべて渡すように、何ならタンスごと送るように言ってきた叔母の態度ばかりが印象強く、礼服以外の着物やタンスを処分してしまった私は長らく叔母の剣幕を恐れていました。

翌日の葬儀は予想していたよりも盛大なものでした。
兄の職場から3人の社員が出て受付に詰め、兄の仕事関係の弔問客が訪れました。
私の職場からもお花が届いていました。
親類の控室では叔母とその家族の人数が多く、小さい子どもがいた為ににぎやかでした。
式が終わり、斎場に行く時、私は母の遺影を持ち霊柩車の助手席に乗りました。
最後まで母の世話をしてくださった施設職員の方々が、目に涙を浮かべながら見送ってくださいました。
兄は自分の車に兄嫁などの家族を乗せて後に続きました。
父と同じように、白く小さくなった母を壺に納める時、案内についていた斎場の方がのどぼとけの骨を探してくださったのですがどれかわからず、その理由がわかっている親族に戸惑うような空気が流れたことを憶えています。
そうして母は、父と同じように、小さくなりました。

その後のこと


長く会うことも話すこともなかった兄は、葬儀の際には私に話しかけ、気持ちを吐き出すようにいろんなことを聞かせました。その中で、母の残したお金のことがあり、葬儀やお墓のことがあるので、早く手続きをして出るものは出して欲しいということがありました。
葬儀の内容等については兄がその一存で決めており、兄嫁からは思っていたよりも盛大なことへの懸念を聞かされていました。
また、実はこの時まだ父のお墓ができておらず、分家である父のお墓をどうするか延ばし延ばしで出していなかった結論をついに出す時と兄は考えていたようです。
父と母は離縁しているので、本来同じ墓に入るものではありませんが、兄の中では自分の両親として同じ墓に入れるつもりのようでした。

兄嫁からは、亡くなる前の母の様子を聞かされました。
それは、兄から母の世話の多くを任された兄嫁の愚痴でした。
認知症状が出ていた母ですが、それでも実の息子である兄とその嫁では態度を変える様子があったそうでした。
結婚以来ずっと別居しており、殆んどつきあいも親しみもない義母の世話から生じる兄嫁のストレスは大きかったことでしょう。

後日、兄嫁から連絡があり、母が住んでいた施設の部屋を訪ねました。
兄嫁は、丹後の叔母から母の荷物一切を送るように言われており、その前に私が持っていたいものがあれば取りに来てはどうかと言ってくれたのでした。
そうして訪ねた母の部屋では、荷物が溢れかえっていました。
私は、母が父から贈られた指輪と、一緒に伊勢に旅行した際に母が買ったネックレスとイヤリングを持ち帰りました。
兄嫁は欲しいものはなく、この後は残っているものすべてを丹後の叔母に送るとのことでした。服一枚下着一枚も、とにかくすべて無駄にしないと言っていたそうで、死んだ人の服をどうするつもりかと兄嫁は不思議そうに話していました。

母の荷物の始末の後は、母の個人年金や生命保険の手続きが問題になりました。
兄と兄嫁は、母が残したお金はすべてその葬儀とお墓のために必要なもので、自分達に託されるべきものと考えていました。葬儀代の支払いのためには、なるべく早くそれが欲しかったのです。
しかし、母の子どもはふたりいるので、そのふたりが平等に分けるべきと考えていた私と意見の相違がありました。
葬儀の後、また以前のように連絡係をしていた兄嫁が、こちらの意図に気づいて以来上手く連携することができなくなり、やがて連絡は途絶えます。
母のお金は、明らかに私が受取人になっているもの以外は兄へ渡りました。
しかし、母(と父)のお墓ができるのは、その一年後になったようでした。

「ようでした」というのは、私が直接関わり、知っていることではないので、多分そのようだと推測しているだけのことです。
私が母の残したお金について思っていたように動かないと気づいた兄嫁は、お金の交渉以外に私に連絡してくることがなくなり、決着してからは連絡が途絶えました。
交渉の間に母の四十九日は過ぎて、決着後の初盆には何らの連絡もありませんでした。
一年後、兄嫁から手紙が届き、お墓ができて納骨をするので来て欲しいと書かれていました。同時に、長女が結婚するので私と子どものふたりに式に参列して欲しいとも書かれていました。
何年か前に、叔母のひとり息子の結婚披露宴で、参列者を多くしたい叔母が普段連絡しないのに連絡して来たことを彷彿させる内容でした。
私は返事をしませんでした。
ただ、その手紙で父と母のお墓がどこかに建てられたことだけがわかりました。どこなのかは、未だにわかりません。

母が最期に生活に使っていたさまざまなものの始末には関わりませんでしたが、私の家には母と、そして父が残した、沢山の家族親戚の写真や8ミリフィルムがあります。
古いモノクロの写真は、すでに誰が写っているのかわからないものもあります。
家自体は何度も引っ越ししているのですが、父も母も、そして兄も、そうした古い思い出を持っていくことがついにありませんでした。仕方なく、引っ越しの度に私が持ってきて、今に至ります。
終わってしまった母の人生の痕跡がそこにあります。
祖母が転居し、兄が家出し、父がなくなり、母もなくなり、私は子供とふたり暮らしになりました。
(途中で私の結婚生活を挟みますが、それもそう長いものではありませんでした。短い、イレギュラーな時間だったと思うのみです。)

私が育った家庭は、5人家族でした。
祖母と両親と子ども(私と兄)で、家族とはおよそそれくらいの規模で、そこに親戚づきあいがついてくるものと長い間思っていました。
しかし、思いのほか早く家族はばらばらになり、小さくなっていきました。
再び大きくなる兆しはありません。
昭和40年代から平成の始めくらいの間に、世界も、日本も、家族の姿も、これほど変わるものかと思います。
戻りたいとは決して思いませんが、小さな茶の間でひとつしかないテレビの時代劇を見ながら5人家族が座っていたことを今でも思い出します。
そんな昭和時代の家族の姿は消えてしまいました。





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