ただいちど

 贔屓のない、当世風に言えば推しのない単なる野球ファンにとって、今年の日本シリーズはかつてない多幸感に満ちたものとなった。エースがエースらしく投げ、主砲が主砲らしく打ち、最後は今季頂上決戦だけに許された延長での決着。一生のような一球。永遠のような一打。まさしく威風堂々。がっぷり四つの千秋楽横綱対決。野球好きでよかったなあと試合のたびに思い、まさかの引き分けが続いて第10戦くらいまでやるってどうよ!? と半分本気で思ったりしていた。長いことプロ野球を眺めてきたけれど、終わってこんなに淋しくなった日本シリーズはあまり記憶にない。あれからすこし時間が経ったけれど、シーズンを締めくくるにふさわしい戦いを見せてくれた選手、関係者の皆さんに、野球ファンの端くれとしてあらためて心から御礼申し上げたい。

 熱戦の余韻はいつもカットアウト。日本シリーズが終われば(シリーズ進出チーム以外はペナントレース終了したらすぐに)、来季に向けてのシビアな球団再編成が始まる。日ハム新庄新監督、じゃなくてビッグボスが明るいオーラを撒き散らして楽しませてくれている一方、契約更改、トライアウト、去る者、来る者、追われる者、戻る者、様々な選択や決断が行き来するストーブリーグ。今年も年を挟んで悲喜こもごも人生いろいろの季節がやってきた。

 何を隠そう(隠してないけど)戦力外通告を受けたことがある。

 99年春、私は所属していた事務所とレコードメーカーから契約終了を告げられ、シンガーソングライターとしての6年間のメジャー生活を終えた。突然のことだったけれど、スタッフも私もお互いにやれることはやり尽くした、という状況だったので、驚くよりむしろホッとしたというのが正直な気持ちだった。ショックより、これで「売れる音楽を作らなきゃ」という使命というか呪いみたいなものから解放される、という安堵の方が大きかった。でもまあ平たく言えば「あまりにも売れないからクビになった」ということである。ああこれは戦力外通告だなあ、と思った。

 プロとして認められ、作品をリリースするためには、レコードメーカーやプロダクションとの契約が必須だった90年代。チャンスに恵まれ、功名心も向上心も根拠なき自信も山ほど抱えて、選ばれしという誇りを胸に鼻の穴をふくらませてデビューした。気分はドライチ本格右腕。当然先発完投。新人王も最多勝も夢見た。天下を取ってやるつもりだった。好調だったのは2年足らず。次第に募る思うような結果が出ない焦り、苛立ち、不安。環境のせいにして移籍もした。苦手だった変化球も覚えた。でも、当たり前のように結果はついてこなかった。

 今シーズン横浜DeNAベイスターズの監督に就任した三浦大輔。その三浦監督の元に来季スタッフとしてかつての同僚が続々集結、というのがすこし前ニュースになった。齋藤隆、鈴木尚典、そして石井琢朗。なぜ話題になったかと言えば、三浦監督とともに彼らは98年横浜ベイスターズが38年ぶりに日本一になった時の主力メンバーだったからだ。

 マシンガン打線。ハマの大魔神。98年はベイスターズの年だった。野球が好きでなくても覚えている人はいるかもしれない。私はよく覚えている。その年の春から夏にかけて、初めてのアメリカレコーディングを敢行した。一発逆転を狙っての思い切った作戦ではあったけれど、契約を維持するための苦し紛れという側面もあり、必ずしも納得ずくではない気持ちのまま、私はその話に乗った。作業の背景でずっとベイスターズの快進撃が通奏低音のように流れていた。やがて日本シリーズを迎える頃にリリースされたアルバムは、私のメジャーレーベルからの最後の作品となる。

 東尾トンビと男権藤の対決。第一戦先頭打者石井琢朗のいきなりのセーフティバントで高らかに幕を開けたあの年の日本シリーズ。「監督なんて夢だと思ってた。だからなれた時、絶対好きなようにやってやると思った」。その年監督に就任、選手主導の「奔放主義」を掲げて指揮を取りチームを日本一に導いた権藤博監督の、あるインタビューでの言葉。私もそんなふうに思ってデビューしたはずだった。でもその頃の私は、煮詰まって見失ってアメリカまで行ったけど見つからなくて、好きなようにやるどころかもう音楽が好きなのかどうかすらわからなくなっていた。ただ夢にしがみついているだけだということにうっすら気づきながら、認めたくなくて気づかないふりをしていた。あの時光を放ち、ついでに私をぎくりとさせたのは、優勝でも日本一でもない、ベンチの奥で静かに腕組みして立つ権藤監督の、いつもまっすぐに伸びていた背筋だった。

 勝ち負けではない(音楽で言えば売れる売れないではない)、それはもっと根本的な、魂の問題だと、とにかくあの時の私は思ったのだ。それから約半年後に告げられる戦力外通告を比較的冷静に受け止められたのは、そこをうやむやにしたままで歌える歌なんてない、と観念したからだった。

 個人的な話で申し訳ないが、そんなわけで、私にとっての98年は、野球ファンとして輝きを目撃した喜びと、そのまぶしさゆえに我が身の不甲斐なさを思い知らされた痛みによって忘れ難く刻まれている。前年までも、翌年からも、特に記憶にない。ただいちど。私の人生と、横浜ベイスターズというチームが交錯したシーズン。

 めでたく無所属となったあとの私は、1年ほどぼんやりしたのち、独立リーグに拾われるかたちで活動の場を得ることとなる。折しもインターネットの急速な普及により、情報も表現も個人レベルのコンパクトな予算で発信できる時代に入りつつあった頃。ステージに立ち、もはやと思っていたレコーディングスタジオで再びアルバムを作り、終わったなーと思いながら空を仰いだ瞬間にほんとうは始まっていたことに気づきながら、私は、今度こそ、と思っていた。今度こそ、絶対好きなようにやってやる。

 そして現在。本人に負けず劣らず往生際の悪いファンや心あるミュージシャン、スタッフの支えにより、結局のところ私はいまもいけしゃあしゃあと歌い続けている。あの頃より幸せかどうかはさておき、こうやって思ったことをつらつら書いてすぐ発表できる、みたいなことも含めて便利な時代になったことは間違いない。戦力外通告を受けた花曇りの午後から22年。ポンコツエースに、魂はまだ宿っているだろうか。いずれにせよ、もう次は自分で自分をクビにするしかないのだ。

 私に、魂の問題、を考えさせた権藤監督。「奔放主義」はやがて軋轢や不協和音という副作用を生み、3年で退任。チームも流転を重ねたが、ハマスタにいまも歌声は響き続けている。人々はいつだって「強いから」好きなわけじゃない。「売れる歌」が正義ではないように。今季三浦番長初年度のベイスターズは最下位。いいじゃないか。ヤクルトもオリックスも前年度同じ場所から駆け上がった。完敗こそチャンス。タカシ、タカノリ、タクロー、98年V戦士の帰還でまた新しい物語が生まれることを楽しみにしつつ。

 来年、2022年の春が来ると、デビューして29年ということになる。時々、もう忘れてしまいそうなくらい若き日に書いた歌を、長く胸に忍ばせてきました、と、打ち明けるように伝えてくれる人が現れる。恋に似ている。思い込みでも妄想でも勘違いでもいい。みんなきっとそれぞれの、ただいちど、を胸に夢をつなぐのだ。

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