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メルカリで買った医学書
駆け出しの医者だった頃、「腹部のCT」という医学書をメルカリで買った。
https://jp.mercari.com/item/m95961437242?afid=4165118595
教科書や本はどれだけ汚れていても内容は同じである。それなら新品にこだわるよりも、中古品を安くたくさん買った方が手元に残る知識は多い。当時の私にとって医学書は高価なもので、メルカリで安く買えるのはとてもありがたかった。
「腹部のCT」は書店よりも1/3ほどの値段で買えた。商品の説明には傷や汚れあり、書き込み多数と書かれていた。実際に届いた商品は、表紙は折れてやや擦れがあり、小口は黒ずんでいた。
出版は2001年。私が買った時点で既に古いテキストだったが、何名かの先輩に一読を勧められた。
早速開いてみると、マーカーであちこちに線が引かれていた。空いたスペースに丁寧な文字で読影のコツやポイントも書き加えられていた。「※◯◯に診断名が変更」「◯◯と◯◯は同一の疾患スペクトラムと考えられている」などのコメントもあった。
医学の世界には10年単位で大きな改変がある、と言われている。その間にも検査法が変わり、治療法の選択肢が変わり、疾患の分類が変わる。数年前の常識が現在の非常識になっていることも多い。だから、医学書の寿命は短いものが多い。
ページをめくっていくと、さらに書き込みがある。「現在は〇〇が第一選択薬」「※〇〇の撮像方法が有効」など、比較的新しい治療法や撮影技法について追記されている。
そこでページを捲る手が止まった。書き込みの筆跡がいくつか異なるのだ。丁寧な文字、跳ねるような文字、筆圧が強い角張った文字。よく見れば書き込みに対する書き込みもある。「遺伝子検査も参照」←「保険適応外に」など。
おそらく多くの若手医師がこの本を手にして、読み込んで、書き加えて、譲って、そして私の元にやってきたのだろう。変革の早い医療の世界で、人力で情報をアップデートしていく。その歴史を想像するとクラクラした。
表紙に戻ると、大きく空いたスペースにイラスト付きでの書き込みがあった。採血や点滴に欠かせない手技である血管確保の手順やコツについてだった。ここにも筆跡の異なる付加情報が多くあった。
「血管を叩かずに優しく擦る」「カイロを用意しておく」「しばらく腕をだらんと垂らしてもらって血管を太くする」「足背血管も確認」などなど。最も書き込みが多かったのはこのページで、それだけ多くの若手医師が血管確保に対して並々ならぬ熱意を持っているのだろう。
現在は血管確保など手技にまつわる医学書は多いが、20年前はほとんどなかったはずだ。手技は先輩医師からの口伝、あるいは見て盗めというのが常識だった。そのやり方では、技術のレベルは高く保たれず、均一化されない。
きっとこの本の所有者たちも血管確保という基本の手技の難しさに悩み、試行錯誤する中で得た自分なりの必勝法を書き込んだのだろう。その書き込みは、同じように若手だった私にとって心強いものだった。
これらの書き込みを参考に、血管確保を成功させたことが何度もある。看護師さんが匙を投げた血管、夜間で緊急の症例、出血が止まらず糸のように細くなった血管など。
私の場合、緊張する場面ではうまくいくことの方が多かったが、むしろ普段の採血現場などで失敗することがたまにあった。
針が怖いと身を捩る成人男性、失敗したら殴ると脅してくる成人男性、刺す前から興奮して怒鳴っている成人男性。男は本当に痛みに弱い。手技に時間がかかると不安を増幅させてしまうので、手早くと思って手技に集中すると失敗する、というのが私のよくあるパターンだった。
失敗を積み重ねるうちに、手早く、よりも確実にやろう、男の泣き言は聞き流そうと開き直ってからは気が楽になった。書き込みを読み、経験を重ねるうちに失敗は徐々に減っていった。
失敗が減ると、「腹部のCT」は本棚の下へ埋もれていった。しばらく棚に保管した後で、またメルカリに出品することにした。この本を自分の棚で腐らせておくのは勿体無いと思ったのだ。
商品の状態は「傷や汚れあり」で書き込みやマーカーの跡多数とした。購入した時よりもさらに値段を下げて出品した。
その本には血管確保のページに、「焦らず深呼吸。安心してもらえるように患者さんとコミュニケーションを取る」と一文書き込んだ。
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