批判的に考える。
物事を批判的に捉えることって、すべてのものに共通して大事なことだ。
それを改めて思わされた今日の1日について、少しお話しさせてください。
本を読んでいて。
最近絶賛はまっている「<効果的な利他主義>宣言!」ですが、ここの一節を読んでとても衝撃を受けたところがある。
それはエシカル消費についての記述だ。
その本の記述を要約すると、以下のようなことが書かれている。
エシカル消費(=生産者に正当な給与が行き渡るように価格が設定されたものを選んで購買する消費活動のこと)は一般的にいいこととされているし、スウェットショップ(=非常に低い賃金で労働者を働かせているお店のこと)は世界的に批判的な視線を浴びボイコットもたくさん起きている。
ただスウェットショップは貧困国の人々にとっては比較的良い職業であり、スウェットショップをなくすようなボイコットをしたとして、それが結果としてスウェットショップを休業に追い込むことができたとして、それは彼らがより低い賃金で働かざるをえない結果を生んでしまう。
また、エシカル消費も、①フェアトレードをする余裕があるのは比較的余裕のある貧困国であり、最貧困国の労働者にはフェアトレードをする余裕はない、②エシカル消費はその増額分のどの程度が現地の労働者に届いているかは明らかにされておらず、その推定は11%ほどに過ぎないという話もある、③現地に渡ったお金さえも、彼らの賃金になっているかどうかは定かではなく、このフェアトレードモデルは効果的ではないという研究も多い、という三つの点からあまり有効ではないと判断されている。そうするよりも、普通のものを買って差額を寄付するほうがよほど効果的かもしれないのだ。
(長いので)要約すると、エシカル消費は一見非常に「いいこと」のように見えて、ほとんど有効ですらなく、むしろスウェットショップを弾劾するようなことは害悪にすらなると。
このように書かれていることに非常に驚きを受ける。
今まで多くの人が常識だと思っていた、フェアトレードの有用性や社会的効果は、僕らの想像とは大きく異なっていた。
それにスウェットショップを「いいこと」のつもりで弾劾しようとすれば、それはむしろ彼らを苦しめる結果につながってしまうということだ。
こうしたことを知らずに、それがいいと思って活動している人はたくさんいるだろう。事実、僕の周りにもこうした活動を支持する仲間は多いと思う。
ただエシカル消費というものの実態やその効果を批判的な視点でしっかりと検討してみるということをおろそかにすれば、こんなにも誤った方向へ進んでしまうのかと思うとゾッとした。
というのが一つ目だ。
論文を読んでいて。
少しこじつけちっくになるが笑、お付き合いいただきたい。
今日たまたま論文を読むタイミングがあって、その内容を見ているときにも思ったことがある。
その論文は、あるタンパク質が足場タンパク質(=他のタンパク質の一部に食っつき安定化させるためのもの)として有用であるということを示すための論文だった。
その論文でも4つの実験を二種類のパターンで行うことで、そのタンパク質の有用性を示している。
これでもか!笑、ってくらい本当にそのタンパク質がどんなものにおいても有用性があるのかを検証するためにいろんなパターンで実験を行っているのだ。
学問では、これだけ物事の批判的に捉えてあらゆる可能性を検討して渡ろうとする姿勢があるということにある種の感動を覚えた。
あれ、まてよ。これって同じなんじゃね?
物事にはいろんな側面がある。
それは例えば、ある支援の方法にだってよく見える面もあれば悪く見える面もある。あるタンパク質にだって、一見良さそうでも落とし穴があるかもしれない。ある戦略を立てるのにだってメリットやデメリットがある。
ものごとはすべて多面的で、何を考えるにせよ目的に対して本当にそれが妥当なものなのかということを多面的に、そして批判的に捉えなければいけない。
それを見誤ってしまうと、思わぬ穴に落ちてしまいます。その一例が、たとえばエシカル消費だったりするのだ。
対照的に、僕が読んだ論文はある意味いろんな角度からその有効性を証明しようとする姿勢は、一種の理想的な検証の流れなんだと思う。
理系の論文は多くの場合、問題提起→仮説→検証→結果→考察→新たな仮説という流れで構成されているため、常に学問にはこの仮説を検証するというプロセスが入る。普段僕らが考える上では忘れがちだが、決して忘れてはならない考え方だ。
僕らは何かが正しいという思い込みの中で生きている。その中で前提を疑う力、それを仮説として検証する力は、正しく目的を追うためには必要な能力なのだ。
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