生活保護について思う(ツイッター連携記事)

ツイッターで生活保護申請時の扶養照会について書いたところ多くの反応をいただいた。
批判する声は勇ましいのだが、その人たちは予算は有限であるという前提を理解されているのだろうか?
打ち出の小槌よろしく振れば金が湧いて出てくるような物でも持っているのか。
有限である以上、何某かの抑制をしなければならず、その第一になるべきものが扶養照会なのではないのか。

「自助、共助、公助」
少し前から保守派議員や論客なる人たちが言い出して、ついに首相が「そして絆」なんて訳のわからんこと付け加えて「私の政治理念」とか言ってしまったために、何でも自己責任かと言う風に批判されているが、これが大原則であることに変わりはない。
一つ言えば、現代では「自助、互助、共助、公助」と言われている。
いずれにしても、左から右へ順に流れるものなのだが、最近では互助、共助をすっ飛ばして公助に進むよう促す傾向が強まっている。

誤解を受けるといけないので、この中では
自助とは、自分や社会の最小単位である家族において支え助ける
互助とは、自分の周りのごく身近な関係、例えば近所や勤め先、同好の士、慈善団体などが相互に支え助ける
共助とは、社会制度、例えば年金や健康保険のような社会保障制度や自治体、公的団体などで支え助ける
公助とは、国民全員により税などを使い遍く広く公平で公正に支え助ける
とするものである。
自助、共助、公助の考えに当てはめると、互助は法によらぬもの、共助は法によるものとしても良いかもしれない。

さて、前置きが少し長くなったが、生活保護とは生活に困窮した人たちを公的に扶助するもの。
根拠になるものは、日本国憲法第二十五条「すべて国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」によるもので生存権と呼ばれるものの一つである。
私も、権利であるのだから活用することを妨げるつもりはないと考える。
しかし、日本国憲法第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっている。
これは権利を活用する際の制約であり濫用を戒めるものである。故に自助が破綻すれば互助や共助、それでも支えきれず最後の手段として公助を頼むという流れの中で、努力をしたにも関わらず止むを得ないものであると理解もできるが、自助すらせず、互助、共助を飛ばして公助というのは単なる権利があるから使うということであり濫用でしかない。

生活保護に対する考え方がさまざまで右から左まで大きく異なるのだと思うのだ。
私は、障害や加齢といった理由によって生活費を得ることが物理的に難しいが故に支給を求める者の他には、事件事故に遭遇した、コロナ禍のような災禍、災厄によって社会的激変が発生したなど自ら抗えない理由により支給を求める者だと考えている。
後者は一時的なものであって生活を安定させたらすぐに離脱することが大切である。しかし、受給者は一方的に上昇を続けるばかりで前者を除いても継続期間が長くなっている。これが異常と言わずして何というべきなのだろうか。

私が、扶養照会をすべきであるという理由は、本来は助けてもらえる人がいないか自ら最大限の範囲で探すべきであると考えるからだ。ところが交渉すらせずに公助を求めるようとする。それも理由が「疎遠だから」「知られたくないから」「恥ずかしい」では誰が納得できようか。
だからこそ行政が扶養を依頼できそうな人に確認をとることに何が問題があるのか。いないことが確認できればそれで良いわけで、またこれを機に窮状を知り一部でも負担する可能性もある。それができるのは行政だからではないだろうか。

それよりも、一番肝心なのは、それにより扶養してくれる人が出れば、その分を他の人の支給に回せるということなのだ。救える人が1人でも増えるということはとても大切なことなのではないのか?
扶養照会を否定する人たちは、その1人は救わないのか?
先述したように予算は有限である。その中での分配にならざるを得ないわけなのだから、1人でも多く助けたいという心情である。
扶養照会でどれほどが「扶養する」と言われるのかというのは、個人的に調べただけなので数字が取れなかったが、否定する人たちの声では1%らしく「その程度のために扶養照会するのは無駄」と言うことらしい。
1%が人数であれば2万人となる。これだけの人が公助を新たに受けられたことになる。これは大きな成果なのではないだろうか。
そして現在は照会を受けても断れる。それでも1%は何とかしようと動いてくれることは素晴らしいことでもある。
断れることを良いことに次長課長河本事件のようなことが当たり前に起きてしまうことも考えなければならない。

疎遠だから照会されてくないというものについていえば、なぜ疎遠なのかも考えなければ社会的な変化は起きない。
では、なぜ疎遠なのか、子から親をみるとDVを受けていた、ネグレクト、毒親であったなど、親から子をみれば家庭内暴力を振るわれた、勝手に家を捨てたなどが見受けられる。
それまでやりたい放題をしてきた人を誰が救いたいと思うだろうか。だからこそ人は人間関係を常に良好に保っておかねばならず、ほとんどの人が言われなくともそれができている。
いただいたリプライの中でも「幸せに育った人は違いますね(乾いた笑い)」というものがあったが、確かに私は幸せだと思う。しかし、それなりに人間関係を大切にしたり、後ろ指を刺されぬように生きてきたし、貯金だってしてきた。それなりに金で苦労しないよう考えて生きているなど努力をしているから幸せでいられる。
ヤクザな人生を歩んでやりたい放題し放題してきた結果の困窮という人に自分の納めている税金が使われることに納得できない人がいて当然ではないか。
故に真に公助を受けるべき人が公助を受けられるようにするためにも厳しい審査を行うことは当然であると考える。
現状、生保にたどり着く前の支援が欠けている不足しているとも言われている。そこを充実させるにはどうすべきなのか。

最後に、社会問題は、総論で語らねばならないのに「この事例は」と各論を持ち込む。それも極端で異例なものを。
これは単純に真摯に議論しようというものではなく、ただ折伏でもしているつもりなのだろうかと思えてならないものもある。
その人たちからすれば人権を守っているというつもりなのだろうが、それにより守られない人が出ることに気づいていないのではなかろうか。

ありがとうございます。どうぞご贔屓に。