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月の下で香るモクセイ 第7話

夜の都会を歩く。今日は熱帯夜ではなかった。涼しい風が二人の頬を撫でる。
 あの後、万里さんにも指輪をはめてもらった。華やかになった右手の薬指。万里さんにも同じものがついていると思うと、やっぱり恥ずかしい。
「いやあ、いい誕生日だなあ!」
 万里さんはそう言いながらスキップする。私はここで大事なことを思い出した。そもそも、この指輪だって本当は誕生日プレゼントだったはずなのに。
「あ、お誕生日おめでとうございます……」
「え?! まさか忘れてたの?!」
「告白のことで頭がいっぱいでした……」
「ははは、スミちゃんらしいや!」
 愉快そうにケラケラと笑う万里さんの腕と私の腕を組み、足取り軽く家路についた。
 家に入って、ソファに座ってからまた深くキスをする。
 部屋に響くリップ音に顔を赤らめていると、万里さんはなんと舌を私の口に挿入してきた。
「万里さ……」
 慌てて止めようとするが、残念なことに私もこれを望んでいたらしい。万里さんの舌と私の舌が絡み合って、ぐちゅぐちゅと音を立てる。私は体中から力が抜けていくのを感じた。逆に万里さんは、どんどん息が荒くなっていって、その瞳はまるで獲物を見つけた蛇のようにこちらを見つめる。
 私の腰に回されていた万里さんの手は、いつの間に私の乳房に移動していた。そしてそこを、ゆっくり、ゆっくりと揉みしだかれる。その時、じゅぱ、という音とともに唇が離れ、万里さんはこれまでにないくらい怖く、でも官能的な瞳をこちらに向けた。
 思考がとろんとしていく。
「まり、さん……」
「私は、スミちゃんのすべてが欲しいって思ってるけど、どう?」
 万里さんはソファに手をついて屈み、私の耳元で囁いた。背筋がゾクゾクする。屈んだ彼女の服が浮き、胸の谷間が見えている。慌てて目を逸らしながら、私は彼女の首筋に顔をうずめた。
「私もです。万里さんに全部、奪われてしまいたいです」
 万里さんは立ち上がり、そして私の腰を抱く。もう一度、耳元で、しかしさっきよりも妖艶に彼女は言った。
「ベッド行こうか」
 チューベローズの香りが漂う寝室に入り、ベッドに押し倒される。
「ま、万里さん……?!」
「何?」
「シャワーくらい浴びません……?」
「別に私は気にしない」
 そういう問題ではないが、でももうこの時を止めたくはなかった。
「てか今更だけど、本当に成人済みだよね? 家出少女じゃないよね?」
 こういったところは意外としっかりしているらしい。私は笑いながら、ゆっくりと頷いた。
 彼女は私のカットソーを胸の上までまくり上げ、スカートを引き抜き、私を下着姿にした。あっという間に下着もはぎとられ、一糸まとわぬ姿にされる。羞恥に震えて、胸と股を手で隠す。だが彼女はその手をどかし、頭上にもっていくと、ベルトで縛ってしまった。
「隠すな。全部私に見せて。いいね?」
 初めて聞く、万里さんの命令口調。私ははしたなく下半身を濡らした。ドМではないと信じたかったのに、強く言われるとなぜだか欲情してしまう。万里さんの冷ややかな視線に、びりびりと体が興奮する。そのまま私は、万里さんに食われた。
 私は、万里さんにすべてを知られ、すべてを奪われ、そしてすべてを与えられた。この上ない快楽に共に堕ちていった。
「スミちゃん、可愛いねえ」
 果てた後の万里さんはそう言って、私の頭を撫でた。
 あんなに高嶺の花だと思っていた彼女が、今こうして裸で私と添い寝をしているという状況が、なんとも不思議だった。やっぱり、彼女の体は美しかった。彼女が下着を外した時、思わず歓声を上げそうになってしまったほどである。ボンキュッボンと形容するのがぴったりのその体。むしゃぶりつきたくなってしまうくらいの色気を放っている。きっと、男女問わず色々な人を虜にしてきたのだろう。
「服着ないと風邪引きますよ。まあ私もですけれど」
「こうしておけば大丈夫」
 抱き寄せられ、肌と肌がこれまでにないほどに密着する。汗ばんでいるのも、今は気にならなかった。彼女の脚と脚の間に挟まれ、彼女の秘められた場所が思いっきり当たってしまう。柔らかい豊乳に丁度顔を埋める姿勢になる。彼女は暖かかった。それに興奮しながら、また舌を絡めあった。私が夢に酔いしれる、その時まで。

 頬に唇を落とされて、目が覚めた。輝くようなウィンクをする万里さんに微笑みかけて、起き上がる。
「おはよう」
 彼女が身にまとっていたのは、真っ白のシーツだけだった。それは私もだったことに気づき、昨夜の情事を思い出す。幸せをそのまま具現化したら、あの夜になるのだろう。私は痛む節々をさすりながら、起き上がった。
「ねえ、スミちゃん。スミちゃんの本当の名前って、何なの?」
 恋人に本名も教えないのは、確かに礼儀に欠けていた。私は、万里さんならすべてを受け入れてくれると信じ、秘密を打ち明けるようにしてつぶやいた。
「花(か)澄(すみ)です。阪東(ばんどう)花澄」
「カスミ? どんな字で書くの?」
「花が澄む、って書いて花澄です」
 私がそう言うと、彼女は感銘を受けたかのようにため息を吐いた。そして、涙を落とした。胸を隠していたシーツがずり落ちるのも構わず、私の頬を包む。なんでこの人が泣いているのか、よくわからなかった。感銘を受けているようにも見えるし、絶望に直面したり、何かを悟って泣いているかのようにも見える。
「いい、名前だね……」
 ああ、その瞳は絶望と確信の色を孕んでいる。なぜなのだろう。
 私はその時、生まれて初めて両親に感謝した。別に、許したわけではない。
 万里さんはスマホを取り出すと、ネットニュースの記事を見せてきた。

『座間市遺体事件 殺人事件とみられる 十二日、神奈川県座間市のアパートで四人の子供の遺体が発見された。殺害されたのは阪東日向さん(12)、阪東夏美さん(9)、阪東聖也さん(0)、阪東聖奈さん(0)で、四人は兄妹。また、この家に住む長女、阪東花澄さん(19)とは連絡が取れなくなっており……』

 さあっと血の気が引いていく感覚がするのが、はっきりとわかった。そして、目の前にいる万里さんが、急に哀れに見えた。殺人犯を拾い、殺人犯を雇い、殺人犯に好かれ、殺人犯を抱いてしまったのだから。
「どっちなの?」
 被害者なのか、加害者なのか。
 前者であってほしいと、すがるような必死の形相でまっすぐに見つめられる。直視したくなくてうつむくが、私はそっとつぶやいた。
「……殺しました。私は犯罪者です」
 言葉にしてみると、その恐ろしさや自分の残虐さが直接的に私にぶつかってくる。
 万里さんの手は震えていた。恐怖で。憤りで。
 最初から、ワンナイトで散るべき運命だったのだ。
「殺人犯と恋人なんて、嫌ですよね。今すぐに私のことなんて見捨て――」
 刹那、頬を打つ音が響く。
 一瞬、理解に苦しんだ。
 私の右頬は腫れていて、目の前の万里さんは先ほどまでのものとは違う、怒りの涙を流していたのだ。頬を伝って、ベッドを濡らすほどに溢れていく涙。
 いつの日か、母親に打たれた痛めつけるための平手打ちではなかった。
「花澄、私はね、すべてを投げうってでも、あなたのことを永遠に愛し続ける覚悟なんだよ?! そもそも、最初に愛してるって言ったのはどっちなの?! 花澄だよね?! 私は本気なのに、なんで、なんで花澄がそんなこと言うの……?」
 そうだ。彼女は最初から本気だったのに、それを裏切ったのは私だった。私が望んで愛の言葉をささやき、彼女に体を捧げたというのに。
「何も、何も取り繕わないで。ただ、あなたのことをそのまま話して。嫌ったりなんてしないから。絶対」
 私は彼女の胸元に甘えながら、二人して嗚咽を漏らす。私は、ゆっくり、だが吐き出すかのようにして語った。
 両親に虐待されていたこと、中卒で働き、弟や妹を養っていたが両親に金銭搾取をされ続けたこと、母親の不倫相手に体を売っていたこと、貯金をほとんど全て奪われ、すべてが嫌になって、最後の晩餐の後に四人を殺したこと、そのあとに自分も死のうと思ったこと、でも怖くて自首しようと思ったけど、都会のきらめきにまるで虫のように吸い寄せられてここに来て、今に至ること。そして、万里に出会っていなかったら今もすぐにでも死んでいるということ、もう生きる資格なんてないこと、でも万里を巻き込んだことを申し訳なく思っていること、自分は万里にふさわしくないこと。
 そのすべてを、私は叫んだ。子どものように泣いていた。それは、万里も同じだった。
「思えばあの時、両親を殺せばよかった。そうすれば四人は幸せになれたのかもしれないのに。結局私は意気地なしで、弱者を殺した人間の屑だ!」
 そうだった。どうせ自分の人生を台無しにするのなら、両親を殺した方がいいに決まっていた。そうすれば、子供たちが幸せになれた可能性だってあった。だけれど、それは怖かった。だから無抵抗な子供たちを狙ったのだ。私は結局、『誰でもよかった』と言いながら、子供や女性ばかり狙う無差別殺人犯と同じことをしていた。やはり、私は極悪人だった。
 万里さんは、私の吐き出したものすべてを受け入れた。その瞳から絶望は去らなかったが、けれど私を拒絶せず、しっかりと抱きしめていてくれた。この時間が、もう終わりを迎えようとしているのは私も、彼女も分かっていた。
「花澄、あなたは悪い。でも、あなただけが悪いわけではない」
 なぜだか、ほっとしていた。ここで全面的に罪を否定されても、罪悪感がさらに増すだけだったから。私は悪人であると、認めてもらえた方が圧倒的に楽だった。
「ねえ、花澄。あなたは、どうしたいの?」
 罪を償う覚悟は、私にはなかった。四人に申し訳ないとは思いながらも、私は彼女と共に逃げる道を選ぶことにする。
「万里さ……万里と一緒にいられるなら、もうなんでもいい」
 彼女の瞳に、覚悟が宿った。彼女は本気だった。
 シャワーを浴びて、部屋を片付ける。そして万里は店に関する様々な資料を机の上に置いて、クローゼットの中にあった札束もそこに添えた。それは、万里が店を捨てることを意味していた。
「万里……」
 彼女の夢を捨てさせてしまった。その不安から弱気になっていると、彼女は首を横に振る。一切の希望も感じられなくなったその表情。
「言ったでしょ。すべてを投げうってでも、花澄のことを愛すって」
 本心なのかは、わからない。その声は明らかに震えていた。盛大な嘘を吐いているようにも見えた。やっぱり、私には自信がなかった。
 日はすでに高く昇っていた。部屋を出て、施錠せずに、カードキーをパスケースごとドアノブに掛けておく万里。もうここには帰らないし、帰れなかった。ドアをそっと指で撫でる万里。その横顔はさみしげだったが、迷いは感じられない。
 とりあえず、駅までの道を歩く。念のため私は、顔を隠すために万里のリゾートハットをかぶっていた。ずいぶんバカンスじみているので、少しおかしい。
「どこがいい?」
「万里が好きなところでいいけど、私は綺麗な海がいいかな」
「いいね」
 どこがいいだろうか。少なくとも東京からは出なくてはならない。その間、警察に捕まらなければいいのだけど。
「すみません」
 悪い予感というのは、どうも当たるらしい。冷酷な声に振り向くと、やはりそこには警官がいた。しかも二人。どうやら聞き込みをしているらしく、周囲にも警官はいて、通行人を呼び止めている。
 大丈夫だ、ここで逮捕されるわけではない。
「この人に見覚えはありませんか? 阪東花澄というのですけれど」
 背筋が瞬間冷凍された気分になる。
 提示された写真は、中学の卒業アルバムだった。今とは違う、だいぶ幼い見た目。だがそれは確かに自分だった。私は怯えながら、思わず万里の背後に隠れる。彼女は一瞬目を泳がせたが、すぐにまた余裕のある表情へと戻った。
「いいえ、存じ上げません」
「そうですか。そちらの方は?」
 なにか言わないと疑われるのはわかっていた。だが、恐怖に体を支配されて、声を発すこともできなければ、顔を上げることもできない。警官はそんな私に疑いの視線を向ける。すると、警官がはっとした表情を浮かべ、隣の警官に耳打ちした。
「帽子、脱げます?」
 マズイ。
 そう思った次の瞬間には、私は駆け出していた。正確には、半ば引きずられるようにして走っていた。万里は、私の手をしっかりとつかみ、ただ無我夢中で走っていた。警官が何か言う声がしたが、もう何も聞きたくなかった。
 カバンから慌ててスマホを取り出し、入れておいたPASMOで改札をくぐる。
 適当に電車に乗り込んだ。どこにいくのかすらもわからない、中央線。さすがにここに飛び込みはしなかった。無様な姿を大衆に晒して死ぬのはごめんだ。
「どこ行こっか?!」
 万里は実に楽しそうだった。狂ったように、笑っていた。なぜか眉毛だけは悲観的に下がっている。甘くてほろ苦い、言い表せない感情をかみつぶしながら、私は笑顔を取り繕った。

 

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