月の下で香るモクセイ 第6話
八月二十二日。あれから特に進展はなく、いつも通りに店を手伝っていた。掃除をして、接客をする。特に変わらない業務をこなす。よく考えれば、人生なんてこんなことの繰り返しなのだと思う。毎朝同じ電車に乗り、何も考えずに変わらない業務をこなし、同じ時間に大体同じものを食べて、また変わらない業務をして、同じ電車に乗って帰る。尤も私は電車通勤ではなかったが。
そんな人生でも、誰かが色を付けてくれていたのは確かである。前の私だったら、それは子供たちだった。彼らの笑顔を見ればなんでもできる気がしていたのだ。不満はあれど幸せだったのに、私の心の弱さのせいでその幸せを壊してしまった。
今、私の人生に色を付けてくれているのは、間違いなく万里さんだ。しかも、これまでには見たことのないくらいに綺麗で鮮やかな色をしている。でもその色は、少しでもほかの色が入ってしまえば真っ黒になってしまうくらいには脆く儚いのだと思う。
だが、あれからどうも気まずくて、万里さんとは必要最低限の会話しかしていない。好きとは思ったよりも重い言葉だったらしい。過去の自分を殴りたくなる衝動に駆られて、足をじたばたとさせる。
今日はいつもよりお客様が少なく、暇だった。暇は多忙よりも苦痛だと誰かが言っていたけれど、それは本当だった。退屈ほどつらいものはない。でも、それほど幸福なことはないのだとも思う。
「スミちゃん」
貧乏ゆすりをしていると、万里さんがこちらに近づいてきた。私は慌てて足をそろえて、いかにも仕事していた風を装う。
「はい」
「今日、お客さん少ないでしょ? 午後からバイトさん来るし、暇だったら帰ってもいいよ。それか出かけてもいいし、まあここにいてもいいけど。はい、お給料」
万里さんはそう言って私に半日分のお給料である二千五百円円と家のスペアキーを手渡した。財布の中を確認すると、万里さんからもらったお給料はすでに五万円を超えている。私は店を飛び出し、万里さんと行ったショッピングモールへと一人で向かった。
アクセサリーショップで悶々とする。
当然ながら私はアクセサリーなど身に着けたことがない。だから、何を買えばいいのかわからない。彼女のピアスやネックレスは大体シルバーだったような気がするから、やはりシルバーアクセサリーの方がいいかと思って今選んでいるものの、シルバーアクセサリーでは括りが大きすぎる。そもそも、ピアスなのかイヤリングなのかネックレスなのかすら決まっていない。そして、五万円だとそんなにいいものは買えないことを今知った。前の私にとって、五万円は垂涎の的になるほどの大金だったというのに。
周りを見渡すと、おしゃれな男女のカップルが大半だった。大体が、彼女が彼氏に甘えておねだりをしているという感じ。私は異質な存在だった.
ふと、輝きにいざなわれて視線を落とす。
だがその先にあったのは、まさかの指輪だった。しかもペアリング。それに安っぽすぎる。二つで五万円と、ぎりぎり足りるお値段ではあるが、誕生日プレゼントに指輪は重すぎるだろう。
ジルコニアのあしらわれた、偽りの高級感のある指輪は確かに綺麗で、安っぽくても万里さんがつけたらきっと似合うのだろうな、と思う。
でも、絶対に重い。こんな青ガキが彼女に指輪をはめたところで、困惑されて終わりなのだ。それで気まずくなって私は逃げ場が無くなり、彼女と別れてホームレスになり、逮捕……。
最悪のシナリオしか出てこない自分の頭を殴りながら、私はその場をぐるぐると歩き回って気を紛らわす。近くのカップルの彼女が、私を指さして彼氏にヒソヒソとしているのが視界に入った。本当にどうしようか。
「何かお困りですか?」
長時間入り浸って、しかも奇行に走っている私を見かねたのか、綺麗な女性店員が私に話しかけてきた。薄めのアイシャドウで縁取られた目はこの上なく優しく、だが退屈そうに細められている。
「あ、いや、えっと、プレゼントを探していて……」
「左様でございますか。お相手はどのような方なのですか?」
首をかしげる女性店員を前に、私は閉口した。どのような方。友達、違う。家族、違う。恋人、絶対違う。配偶者、かなり違う。
万里さんと私の関係を表せる名詞はありそうになかった。いや、でも名詞のない関係だからこそ意味があるのかもしれない、などという意味の分からないことを考えながら、私は言葉を選ぶ。
「大切な人です。世界で一番」
ああ、私は見ず知らずの女性店員になんて恥ずかしいことを言っているのだろう。言った後に慙死に値するほどの感情が襲ってきて、私は思わず手で顔を覆いながらうつむいた。だが、流石プロというべきなのか、女性店員は柔らかく私のことを肯定する。
「素敵ですね! 何かお考えのお品物はございますか?」
「一応、この指輪を考えているのですが、流石に重すぎるかなと……」
「お客様、」
ふと、女性店員の目が鋭くなった。何を言われるのだろうかと身構えていると、彼女はまたすぐにあの柔らかい笑顔に戻る。そして、重大な何かを打ち明けるように、重くその可憐な口を開けた。
「先ほどお客様は、お相手のことを決して迷うことはなく『大切な人』とおっしゃいましたね? それはとても、とても素晴らしいことだと私は思います。例えば、長年一緒にいらっしゃるご夫婦のお客様でも、素直にお相手を大切であると、私どものような他人に対しておっしゃるお客様はそう多くはありません。大切な人であるとおっしゃることに躊躇いがなかったのなら、そのお気持ちはお相手にもきっと伝わっていますよ。ここは少しだけ、勇気を出してみてはいかがでしょうか……?」
感動で立ちすくむ。万里さんが大切な人であることを認められたその喜びで舞い上がりそうになった。私は緩む涙腺を必死で締めながら、女性店員に「ありがとうございます」と深く、深く頭を下げた。
レジでお会計を済ませ、私はもう一度女性店員に「本当に、本当にありがとうございました」と頭を下げる。彼女は少し照れたように笑い、優しく語った。
「とんでもございません、お客様。一店員に過ぎない私めがでしゃばってしまい、逆に申し訳ありません。ぜひお相手に、この指輪と共に愛の言葉をささやいてくださいね。素直に愛してる、と表現するのはとても恥ずかしいことではありますが、大切なことでもあります。愛してる、と永遠に言えなくなる日が来るのは確かなことなのですから。日常は、いつかは簡単に崩れ落ちてしまいます」
チョコレートのように甘そうな女性店員の瞳を見つめる。きっとそれで、様々な人の幸せを見届けてきたであろう。彼女の言葉はとても重く、私の心にずっしりと残った。いつか崩れる日常。だけど、私たちはそのカケラでまた日常を作り、そしてまた崩される。普遍的な生活は、何よりも脆いのだ。
夜の恵比寿が、なぜだかとても儚いものに見える。鉄筋コンクリートの塊が乱立している。これらが壊れても、またここに恵比寿という街は復活するのだろう。誰かしらはこの恵比寿という街と、そこに住む人を愛しているのだから。
そういえば、子供たちに「愛してる」と言ったことは一度たりともなかった。愛していたはずなのに。愛していたからこそ、あの時身を挺して日向を守ったのに。愛していたからこそ、すべてをあきらめて働いていたのに。
思えば、殺したのだって愛していたからだった。本来は、私が死のうとして、そうしたらあの両親に引き取られてしまうことを嫌っての心中だった。なのに、死のうとした私が今ものうのうと生きている。
「ちょっとすみません」
やはりお迎えが来たか。私を呼び止めたのは、男性の警察官だった。
「はい」
私は何も隠すことはなく、彼の目をじっと見つめた。だが彼は、すぐに目を見開くと、頭を下げる。
「申し訳ありません。未成年かと思って声を掛けましたが、成人されていますよね?!」
「ああ、そうです。成人です」
「いやあ、本当に申し訳ありません」
「全然大丈夫ですよ。それでは」
どうやら未成年と間違えられて、補導されかけていたらしい。髪色は少し明るくなったとはいえ、背は低いし、幼児体系だし無理もないだろう。昔からこういうことはよくあった。
時刻はすでに二十三時を回っていた。万里さんに心配をかけてしまう。私は足を速めて家へと向かう。でも、指輪はどこに隠そう。とりあえず私は、紙袋ごとカバンに突っ込んでおくことにした。
「遅い。連絡しようか迷った」
部屋に入ると、万里さんが少し不貞腐れていた。さすがに遅すぎただろうか。
「ごめんなさい」
「まあ、別にいいけどさ。あ、てか聞いて聞いて!」
急にハイテンションに笑った万里さんは、私の肩を掴んでソファに座らせる。目の前に置かれたマックブックにはシフト表が映っていた。万里さんは基本ぎっしりと予約が入っているが、一日だけ空欄の日がある。
「八月二十九日、休めた!」
万里さんはそう言って笑い、ブイサインを掲げる。
「おお! 誕生日ですよね」
「よく覚えてたね」
忘れるわけがない。カレンダーを見つめるたびに、その日付を頭で反芻してきたのだから。彼女の誕生日を忘れてしまうことはないと思う。八月二十九日。二十九という数字を見るたびに胸がうずくようになってしまったのだから。
「でさ、前日の夜レストラン行こうと思うんだけど、どう? 高層ビルに入ってるところでさ、夜景が本当に綺麗なんだよね」
「行きたいです!」
「そんなに?!」
「はい!」
「まあ君、高いお店行ったことなさそうだもんねえ」
若干ディスられたが、そんなことはどうでもいい。私のプランが決まった。そのレストランで日付をまたぎそうなときに、私が彼女に指輪をはめる……完璧である。多分。
大失敗に終わるか、大成功かの二択だ。私は賭けに出ることにした。
八月二十八日。仕事を終え、万里さんとレストランへ向かった。いかにも高級フレンチレストランである。完全に個室になっていて、それでいて大きな窓が各部屋に必ずある。メニューに写真がないのは、どうやら高級店あるあるらしい。メニューを見ても何が何だか全然わからないので、とりあえず万里さんと同じ「宮古産鱈のヴァプール」という奇妙な名前の料理を頼んだ。さすがにワインは飲めないので、紅茶を適当に注文する。もちろん、砂糖たっぷりで。
「親と昔はここによく来ていたなあ」
万里さんは懐かしむように、机をそっと撫でた。
「お金持ちですね」
「中央区出身なの。銀座のあたり」
「わあお」
「実家が太かったからこんなに早く、しかも恵比寿で独立できたんだけどね。親は美容師になりたいって夢を誰よりも応援してくれたし、愛されてるな、って思う」
私は万里さんのことを羨んだ。愛されていると自信を持って言える親がいることが、心底羨ましい。夢を応援してもらえることは、本当に幸せなことだ。私の夢は、誰にも応援してもらえなかった。そもそも、夢を持つこと自体が夢のようなこととなっていた。だから、将来の夢はいつだって空白だった。
運ばれてきた「宮古産鱈のヴァプール」は、いわゆる蒸し料理だった。甘くて美味しい鱈がいい感じに口の中でほぐれる。確かにおいしいが、私は貧乏人の舌をしているため、これに高いお金を払える神経がちょっとわからない。
「ねえ」
万里さんは「宮古産鱈のヴァプール」を味わいながら、私に話しかけてきた。夜景なんかよりも彼女は美しい。だが、今は彼女がもっと美しくなければいいのにと思ってしまう。もっと彼女の顔の造形が崩れていたら、身長がもっと低かったら、もっとひどい性格をしていたら(その場合、そもそも出会っていなかったと思うが)、私は彼女のことを堂々と愛せただろうに。
「スミちゃん、やっぱり何か隠しているよね?」
決して責めるような口調ではなかった。ただ、いじるように笑いながら、軽く彼女はそう尋ねてきた。普通ならシラを切れるのに、私はすでに大罪を犯していた。秘密を暴かれそうになるたびに心臓が暴れ始める。
お願いだから何も詮索しないで、と彼女に視線だけで懇願する。
「はは、もうとっくにわかってるよ」
「……え?」
心臓が止まりかけた。まさか、彼女は私が人殺しだということを――。
「何をやらかしたのかは知らないけど、人に言えないような何かをしちゃったのだけはわかる。でも大丈夫だよ、スミちゃん。私はずっと、スミちゃんの隣にいるんだから」
心の奥底が揺さぶられたような感覚になる。何をやらかしたのかはわからないのに、私の隣にいてくれる。そのことが信じられなかった。私は彼女を愛しているけれど、彼女が私を愛しているとは到底思えない。この愛を伝えることに躊躇いはないが、万里さんという素晴らしい女性が私なんぞに愛を注いでいていいのかと思う。
「ありがとうございます……」
あとはその愛を指輪と共に伝えるだけとはわかっていたが、何となくその時が来ないでほしいと思った。緊張で心臓が破裂してしまいそうだった。
そこからは会話を交わさず、ただおいしい料理を食べながら夜景を眺め……ている万里さんを眺めていた。夜景よりも眺めたいものが、そこにはあった。夜景の中に、何百万もの人がいて、そして彼らもこの夜景を作り出しながらともにこの景色を見つめている。
美しいものに見惚れている大切な人の瞳は、とても色気があってなぜだか悔しくなる。その瞳を、私に向けてほしい。私が夜景と同じくらい美しければ。その瞳の中に飛び込んでみたい。
Louis Vuittonのカバンの中で収まる、安物のペアリング。前日、万里さんが寝ている間にこっそりサイズが大丈夫か確認しておいた。その時、無意識に彼女の左手の薬指にはめてしまったのを思い出す。あの時は彼女は夢の中にいたけれど、今は現だ。
箱を開けると、指輪と目が合った。「任せてください!」とでも言いたげに、照明に反射して輝く。二万五千円のくせに、調子に乗るな。でも本当に頼んだぞ。そう心の中で指輪に語りかけ、箱を閉めた。
「宮古産鱈のヴァプール」の最後の一口を頬張り、紅茶を啜る。甘い。やっぱり強がらずに砂糖を入れておいてよかった。
時間は刻々と過ぎていく。十秒おきくらいに時計を見つめてしまう。万里さんは、ずっと夜景を眺めている。この瞬間の万里さんを凍結させて永遠にしてしまいたいくらいに凄艶だ。でも、その凍った彼女を見るたびに、きっと私は悲しくなるのだろう。もう二度と彼女は私の方を向くことはないという哀切に勝てる自信はない。
ふと、視線がぶつかった。夜景を眺めていた時の瞳の色は、そこにはない。
「私のこと、ずっと見てたよね?」
万里さんと出会ったその日に、こんなことを言われた気がする。私は彼女を、熱意を持った視線で見つめていた。あの日から、ずっと。
「はい。ずっと見つめていました。熱意を持って」
「そっか。嬉しいな」
万里さんの視線は、すでに夜景へと戻されていた。それに私は甘く苦しんだ。興味の的が私ではなく夜景であることが、許せなかった。けれど、夜景には勝てない。勝てるはずもない。
時は、二十三時五十八分。運命の時がやってきた。私は、カバンの中から指輪を取り出す。手に取られた、小さな金属。本当に頼んだぞ、と心の中でまた語り掛ける。やっぱり指輪は、やけに自信満々だった。
「万里さん」
声を震わせながら、私は真摯に万里さんを見つめる。
やはり、夜景を見つめていた時の瞳の色はしていなかった。こっちを見るときは、暗い瞳の色をしている。やはり、やめておいた方がいいだろうか。だけど、私はいつ彼女と永遠の別れが来るのかわからない。今すぐにでも逮捕されるのかもしれない。だったら、伝えるしかなかった。
「万里さん……。重いってことはわかってます。今すぐに私の頬を打ってもらっても構いません。万里さん、孤独だった私を救ってくれたのはあなただったんです。私はあなたのことが世界で一番大切なんです」
思いのほか早口になってしまった。彼女の顔を見る余裕すらない。怒っているだろうか。悲しんでいるだろうか。……喜んでいるだろうか。でも、こんなところでは止まれない。一回、強く瞬きをして入魂する。
「私は、あなたのことが大好きなんです。よかったら、ずっと、ずっと一緒にいてください」
やっと、万里さんの顔を見れた。その両目からは、涙が滴り落ちている。でも、それは悲しみから来るものではなかった。なぜなら、その瞳の色が、夜景に向けるものと全く同じだったから。水晶のように透明で、キラキラとした涙が流れ続けている。
私は万里さんの右手を取る。美しいその手の薬指に、祈りを込めて指輪をはめた。
「この世で一番、誰よりも愛してます」
やり切った。私は達成感に駆られながらも、返答をこれでもかと思うくらいに緊張しながら待った。
「スミちゃん」
涙でなめかましく濡れたその声に心酔しながら、私は顔を上げる。椅子から立ち上がり、彼女はこちらに来た。反射的に私も立ち上がると、彼女は私を抱きしめた。
「私も、スミちゃんのことが大好き。愛してる」
私は今なら死んでもいいと思った。世界で一番の幸せを味わいながら、彼女は私の体から手を離すと、今度はその手で私の頬を包み込む。
私に魔法をかけたあの日みたいに。
万里さんはゆっくりと顔を近づけた。ああ、なんて夢のような出来事なのだろう。ゆっくりと目を閉じ、あとは彼女にすべてを委ねた。
唇を重ね、その柔らかさと甘さに堕ちていく。こんなことがあっていいのか。頭の中が溶けていってしまう。
唇を名残惜しそうに離すと、彼女は微笑んだ。
八月二十九日は、幸せの中で訪れた。