【評伝】武田國男・元武田薬品工業社長

 1781年に初代武田長兵衛が大阪・道修町の薬種商から暖簾分けで独立した小さな店が老舗製薬企業、武田薬品工業の原点。歴代当主は武田長兵衛の名前を受け継ぐのが決まりで、年輩の大阪人は武田薬品のことを「タケチョウさん」と親しみを込めて呼んだ。6月に死去した武田國男元社長は6代武田長兵衛氏の3男。創業家に生まれながらも、243年の歴史に対しては愛憎半ばする想いを抱き、1993年、社長に就任した際も武田長兵衛を襲名せず、「武田姓の社長は私で最後」と言い切った。
 
 生まれ育った環境がそう言わせたのだろう。「私の履歴書」の中で「大阪の古い商家では生まれながらにして長男が跡継ぎと決められていた。将来の家長とそれ以外の子どもは明確に区別し、長男には早くから帝王学を施す。3男の私から見たら長男を育てるためにあるような家庭だった」と國男氏は述懐している。
 
 かしこまった場が苦手で、その関係もあってか靴下を嫌った。大阪・北新地のお座敷で会食した時は、席に着くなり靴下を脱いで裸足になってから、箸を取って食事を始めた。大学時代に武田薬品の工場でアルバイトをしていた時も裸足に下駄履きでカランコロンと音を鳴らし構内を闊歩した。厨房の料理人と喧嘩になった時は「相手が牛刀を出して脅してきたから、こっちは両手に下駄を持って応戦した」。暑がりで下駄履きを好んだのかもしれないが、振り返ってくれぬ父への反発から偽悪ぶっていたようにも思えた。
 
 6代長兵衛氏は長男で後継者である彰郎氏の育成に全精力を注ぎ、創業200周年の1981年に7代長兵衛を襲名させる手筈を整えていた。前段階として74年に社長の椅子を従兄弟の小西新兵衛氏に譲って会長に就いた。小西氏も彰郎氏が昇格するまでの中継ぎということは重々承知の上だった。
 
 ところが80年、悲劇が武田薬品を襲う。彰郎氏がジョギング中に46歳の若さで急逝し、半年後に後を追うようにして6代長兵衛氏も亡くなった。6代長兵衛氏は大阪商工会議所の佐伯勇会頭(近畿日本鉄道会長)が後継会頭に想定していた人物。その死は大商の次期会頭をめぐり佐伯氏と住友化学の長谷川周重会長が角を突き合わせる「第2次大商戦争」の伏線となったが、これはまた別の機会に。
 
 2男の誠郎氏は早くに学究の道へ進んでいた。小西氏は3男、國男氏の社長就任に目標を定め、倉林育四郎氏、梅本純正氏、森田桂氏と3人の社長を挟みながら、大急ぎで帝王学を授けた。社業は小西氏、厚生省など中央官庁と付き合うための有職故実は元厚生事務次官の梅本氏が指南した。60年に安保反対運動が最高潮に達した時、梅本氏は岸信介内閣の首席参事官として首相官邸にこもっていた。押し寄せる労働組合員や学生に官邸の門が破られるやマイクを掴み、官邸屋上から「5分以内に退去しないと実力行使する」と一喝した硬骨漢。さすがの國男氏も一目置く存在だった。
 
 83年に渡米し、米アボット社との合弁会社、TAPファマシューティカルズ(イリノイ州)の再建に取り組んだ。抗生物質の発売準備を進めていたが、承認は遅れ、独自性も乏しい。日本の本社と掛け合って販売計画を中止させ、前立腺がん治療薬「リュープリン」に傾注し、大ヒットさせた。93年、社長に就任した際は、お決まりの同族批判が巻き起こったが、その声を押さえ込めるだけの実績をTAPで積んでいた。
 
 およそ物事には動じないタイプだが、98年ごろのある日だけは様子が違った。前立腺がんを患った某巨大メディアの最高実力者がリュープリンのおかげで快癒し、「素晴らしい薬を開発してくれた武田薬品工業に感謝状をお渡ししたい」と伝えてきたのだという。國男氏は「僕が行くべきなのかなぁ」と人選に悩んでいた。結局、リュープリンの開発担当だった腹心の副社長が受け取りに行ったと後日聞いた。
 
 人員削減に踏み切り、成果主義に基づく人事制度を導入、不採算工場を閉鎖し、食品や化学品などの周辺事業を相次いで売却した。大胆な構造改革を断行する原動力はどこにあったのか。ヒントは64年にフランスの古都ブザンソンに語学留学した時の思い出にある。共同トイレでシャワーもないおんぼろ下宿の屋根裏部屋で寝泊まりしていたある日、父の6代長兵衛氏が訪ねてきたという。
 
 「私の履歴書」には「父とはホテルで酒を飲みながら遅くまで話した。日本では2人で語り合うなんてことはあり得ない。オーバーに言えば生まれて初めて父親を身近に感じ、甘えたい衝動に駆られた」とある。孤高の人を装ってはいたが、心の奥底では父を欲していた。亡き父に、兄ではなく3男の自分を認めてもらいたいという一心が名経営者、武田國男を生んだのである。
 
6月8日没、84歳

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