シャミカト小説(タイトル未定)_20200608

 出て来なければいいと思っていた。
 だが、きっと彼女は出てくる。
「アタシはレア様の剣だ」
 雷霆を手に笑うカトリーヌの声が蘇る。シャミアには到底理解できなかったが、大司教に騎士として自身の全てを捧げようとする彼女の瞳は誇りに溢れ、眩しかった。
 王都フェルディアに展開するセイロス騎士団のメンバーの中にカトリーヌの名を見つけた際には、やはり、としか思わなかった。
 大司教自らが戦場に立つ中、彼女が出てこないはずがない。
 相棒以上の関係にと望んだ相手を、きっとここで失うことになる。


 教団が街中に火を放ったとの報告が上がり、帝国軍は怒りに震えた。
「なりふり構っていられないというわけですな」
 ヒューベルトの言葉にエーベルガルトは苦々しげに頷いた。
「多少の犠牲は仕方がないと思っていた。でも、人々にあえて犠牲を強いるやり方は気に入らないわね」
 まして、街に暮らす多くはセイロス教の信者だ。その人々を守るどころか傷つけようとする教団の、どこに正義があるというのか。
 街に火を付けているのはセイロス騎士団らしい。
 ここに至って、彼らとは完全に訣別することになる。
 この蛮行はおそらく大司教の指示によるものだ。騎士団の全てが加わったのだろうか。


 シャミアは元相棒の動向を探り、ほどなく居場所を突き止めた。やはり大司教の指示に従いはしていたが、彼女の部隊が火を付けたのは街の外れ、風下で、すでに住民たちは逃げ出した後のようだった。
 苦渋の選択だったのだろう、それを思うと心が痛かった。
 快活、豪放。
 カトリーヌにはそういう言葉がよく似合う。自らに恥じることなく正義を貫こうとする彼女にこのような真似をさせる存在に怒りを覚えた。


「よ、元相棒。久しぶりだな」
 帝国軍を待ち受けるカトリーヌを見つけると、シャミアは不用意とも思える気安さでかつての相棒に近付いた。
「シャミアか。また会えて良かったよ。五年ぶりか」
 人懐こい笑みを浮かべてカトリーヌが応える。
「顔色が悪いね。夜はちゃんと寝られているのかい」
「……昨夜は昔の傷が突然痛みだして、あまり寝られなかった。お前の方こそ顔色が悪い。どうかしたか?」
 戦場での高揚感で、いつもは紅潮しているはずのカトリーヌの顔には疲労の色が強く影を落としていた。
「アタシも寝不足さ。久し振りにアンタに会えるかもと思うと、なかなか寝付けなかったよ」
「そうか」
 シャミアは手にした弓を握りなおした。
 カトリーヌの雷霆が、淡く光を放つのが見えた。


 弓兵は耳が良い。耳だけではない、視力や気配を探る能力にも優れる。
 より遠くの敵を見つけ、また、より遠い敵の攻撃から味方を護らねばならない。
「前だ、来るぞ!」
「任せな!」
 前方に刃の輝きを認めて続けざまに二矢を放った。敵の弓兵が二人、剣士が一人。矢は二人の弓兵に命中したはずだ。カトリーヌならば、そこいらの剣士相手に後れをとることはないだろう。
 シャミアは即座に左からの敵に対峙する。こちらにも同数の敵がいるはずだったが、一旦は捕捉した敵を、前方の敵に注意を向けたために見失った。
「……チッ!」
 三人の敵のうち、弓兵の一人の位置は捕捉したが、もう一人の弓兵と剣士がどこにいるかが掴めない。
 シャミア自身も移動しつつ、捕捉できた弓兵に向けて矢を放った瞬間、死角から射られた矢が左上腕に刺さった。衝撃で吹き飛ばされ、たまらず弓を取り落とす。
「う、あ……!」
 すかさず距離を縮め、剣を振りかぶった敵兵に向けて辛うじて投げつけた短刀は、狙いは正確だったものの威力が足りず、容易く弾かれた。
「シャミア!」
 戻ってきたカトリーヌが駆け寄り、敵を斬り捨てる。
「近くに弓兵がいる、気を付けろ!」
 その声を受けてカトリーヌが辺りを探り、岩陰からこちらを窺っていた弓兵を見つけ出し、斬った。
 シャミアは左腕の矢を引き抜こうとしたが、痛みで力が入らない。気持ちだけが焦る。
「抜かない方がいいんじゃないのか」
「いや、抜いてくれ。頼む」
 脂汗を浮かべ苦痛に耐えながら、戻ってきたカトリーヌに頼んだ。
「急いでくれ、早く!」
「分かった、少し我慢してくれよ」
 矢が刺さった少し上を布できつく縛りつける。
 さして長くない矢を掴むとカトリーヌは一気に引き抜いた。
「うあぁっ……!」
「もう大丈夫だ……思ったほど血は出ないもんだね」
「そうだな」
 矢が血止めの役割を果たし、引き抜いた際に大量に出血することがあり、矢を受けても抜かない方が良いことが多い。だが、この位置であれば出血はさほどではないことを、これまでの自他の経験で理解していた。むしろ、できる限り早く引き抜くべきだった。筋肉が硬直し、鏃が取り出せなくなる恐れがある。
 矢を引き抜いた際に肉が抉れ、激痛に呻いた。
 カトリーヌは傷口に畳んだハンカチを当て、上から別の布できつく縛った。布はすぐに赤く染まったが、それ以上流れ出すことはなかった。
「すまん、助かった」
 ありがとう、と最後まで言えたかどうか分からないうちに、シャミアは気を失った。


 傷の痛みに目を覚ました。自身がどこにいるのかを一瞬見失ったが、すぐさま理解する。
 大修道院にある医務室だろう。
「やっと気付いたか。調子はどうだい」
 心底ほっとした顔でカトリーヌが尋ねた。
「最悪の気分だ」
「その様子だと大丈夫みたいだな」
 鎧こそ脱いではいるが、カトリーヌの服装は先ほどまでと変わらないようだ。
「……さっき……」
「何だい?」
 つい口に出してしまったらしい。
「私はどれくらい寝ていた」
「丸一日だよ」
「そうか」
 修道院まであと半日というところだったはずだ。恐らくそこから彼女に連れ帰られてきたのだろう。
 腕の傷には包帯が巻かれてあり、気を失っている間に改めて治療を施されたようだ。
「目が覚めたのね。気分はいかが」
 カトリーヌと同じようなことを言いながらマヌエラが顔を出した。
「最悪だ」
 こちらにも同じように答えると、彼女は笑った。
「矢を受けたのだもの、当然ね」
 横になったシャミアの傍らに立ち、傷ついた腕にそっと触れる。
「骨に異常はないと思うのだけど、どう?」
「そうだな。痛みはあるが、多分骨は大丈夫だと思う」
「良かったわ。最初の手当てが良かったのね」
 隣でカトリーヌが自慢げに鼻を鳴らしてみせた。
「安心しろ、お前が怪我をした時には私が完璧に手当してやる」
「張り合うなよ」
 カトリーヌは肩をすくめた。
「マヌエラ、部屋に戻って構わないか。薬品の臭いはどうにも苦手だ」
 仕方がないわね、とマヌエラが頷いた。
「いいわ。あとで様子を見に行くわ」
 無事だった右腕をついて起き上がりかけたシャミアは、自身が身につけている下着を見て動きを止めた。
「どうしたんだい」
 手を貸そうとしていたカトリーヌが首を傾げる。
「これは、なんだ」
 胸元をつまんで問いただした。
「下着だよ。アンタの部屋に取りに行こうかと思ったんだけど、勝手に入るのも悪いと思ってね。アタシのだからちょっと大きいみたいだ」
 恐る恐る毛布を上げて確認すると、下穿きも自分のものではなかった。
「どうやって着替えたんだ?」
「アンタは気を失っていたんだから、自分では着替えられなかったろ。アタシが着替えさせたに決まってる」
「下穿きまで替える必要がどこにある!」
「戦いの後だったから、あのままじゃ気持ち悪いと思ってさ」
 悪びれることもなくカトリーヌは笑って答えた。
「女同士なんだし、別に気にすることないじゃないか」
「私が気にする!」
「分かった分かった。じゃ、今度アタシの裸も見せてやるからさ」
「そんなことを言っているんじゃない!」
 めんどくさいやつだな、とカトリーヌが笑う。
「別に減ったり増えたりする訳じゃなし、気にするな」
 横でマヌエラが意外そうな顔でこちらを見ている。
 何となくその表情の意味を悟ってシャミアは大きく嘆息した。
「とりあえず、この格好で外には出られないか」
「私のガウンを貸すわよ。気が向いた時に返してくれればいいから」
「ありがとう、助かる」
 カトリーヌの手を借りて起き上がり、マヌエラのガウンをまとう。
「抱いていってやろうか」
 立ち上がった時、わずかによろけたのを見てカトリーヌが心配げに言った。
「大丈夫だ、何とか歩ける」
 シャミア自身よりも余裕がない表情に、微かに笑ってみせる。負傷していない右側から貸してくれる肩に素直に縋った。


 学院の生徒たちは授業中らしく、ほとんど人に会うことなく部屋に戻ることができた。
 ベッドに腰かけて息をつく。負傷の影響か、それだけで息が切れた。
「アンタの部屋に入るのは初めてだけど、何にもないね」
「一つの場所に留まることがなかったからな。あまり物を持つ習慣がないんだ」
「そんなもんかね」
 カトリーヌがこの修道院にやってきて、半年ほどだ。すぐにペアを組むようになったが、互いの部屋を訪ねるのはこれが初めてだった。
「茶でも淹れてやりたいところだが、この腕だからな。今日は諦めてくれ」
「ならアタシが淹れてきてやろうか」
「できるのか」
「アタシを何だと思ってるんだ。茶くらい淹れられる。ちょっと待っててくれ、茶葉やカップは勝手に使うよ」
 ほどなくカップを二つ手にして、カトリーヌが戻ってきた。
 受け取った茶を一口飲んで驚いた。
「うまい」
「だろ?」
 椅子に座ったカトリーヌが笑う。
 いつもと同じ茶葉だというのに、香りも味も全然違う。
「驚いた」
 大雑把な性格をしていると思っていたが、こうも繊細なところを持っているとは思いもしなかった。
「今度淹れ方を教えてやるよ」
「ああ、頼む」
 素直に頷いた。
 取り留めのない会話をいくらか交わしたが、疲れが見えだしたシャミアを気遣ってカトリーヌは立ち上がった。
「そろそろ戻るよ」
「世話になったな」
「相棒だからね。後で様子を見に来るからさ、ゆっくり休んどきなよ」
 カトリーヌが部屋を出るのを目で見送って、一つ息をついた。
 明らかに消耗している。少しでも休んで、体力を取り戻さなければならない。
 シャミアはそっと目を閉じた。


 少し眠っては痛みに目が覚める。浅くて短い眠りと覚醒を何度か繰り返したが、腕の痛みが尋常ではなくなりつつあり、熱が上がってきた。
 負傷した腕に触れた感触から、傷口は見えないものの、状態を察した。ひどく化膿しているらしく、傷の周囲、広い範囲に渡ってジクジクと痛みを感じる。
 早めに処置する必要があったが、自身で行うだけの気力も体力も今はない。立ち上がってマヌエラの元に行こうかとも思ったが、それすらも苦痛だった。
 無理にでも眠り、まずは体力を戻そうとシャミアは目を閉じた。


 突然人の気配を感じ、反射的に短刀を構えた。相手の喉元に突き付けた瞬間、それがカトリーヌだと気が付いた。
「なんだ、お前か」
「なんだじゃないよ! アンタの方こそどうしたんだ? 何でこんなトコでヘバッてるんだ」
 短刀を突き付けられたカトリーヌは両手を肩の高さまで上げて降参のボーズを取ったまま、驚いた風に尋ねる。
 様子を見にきたところ、シャミアがベッドにおらず、床に座り込んでいたので慌てて駆け寄ったのだと言う。
「見ての通り、寝ていただけだ」
「アンタは床に転がり落ちるほど寝相が悪いってのかい?」
 そのことか、とシャミアは笑った。短刀は既にしまい込んでいる。
「別にどうということはない。私はいつも床で寝ている」
「はあ?」
「寝ているときは無防備だからな、ベッドは使わない。壁に背を預けて座って寝ることにしている」
 カトリーヌが大きなため息をついた。
「そんなんじゃ休まらないだろ」
「慣れの問題だ。ちゃんと休めている」
 しかし、と言いかけたカトリーヌを遮った。
「それよりも、マヌエラのところに連れて行ってくれないか」
「どうした、痛むのかい」
「ああ。恐らく化膿している。切開の必要がある」
 カトリーヌはシャミアの額に手を当てて、顔をしかめた。
「熱が高い」
「そうだろうな」
 だから医務室に、と言うシャミアに、右腕を上げるように告げる。
 首を傾げながら従ったシャミアを、カトリーヌは軽々と横抱きに持ち上げた。
「おい、何をする」
「アタシが連れて行く」
「大丈夫だ、歩ける」
「歩けないから、座ったままだったんだろ?」
 確かに、その通りだ。言い返せずにシャミアは黙り込んだ。
「暴れんなよ。いくらアンタが軽くても、落としちまう。今のアンタじゃ、受け身も取れないだろ」
 カトリーヌの言うことが正しい。シャミアは右腕をカトリーヌの首元に巻きつけた。
「分かった。頼む、連れて行ってくれ」
「任せな」
 カトリーヌは笑うと、部屋を出た。
 できるだけ人に会わないようにと祈っていたが、授業が終わった生徒達と多くすれ違った。課題出撃に手を貸すことがあり、その技能の高さで生徒達から尊敬の念を向けられることも多く、個別に指導を求められることもある。そんな生徒達の間をカトリーヌに抱きかかえられながら通り過ぎるのは恥ずかしかった。
 大修道院の立ち入り可能な場所についてはほとんど知り尽くしている。ほどなく今いる場所が近道でも遠回りでもなく、マヌエラの医務室に向かってすらいないことに気が付いた。むしろ、こちらは。
「どこへ行くつもりだ」
「アタシの部屋だよ。マヌエラにはコッチに来てもらう」
「何でお前の部屋なんだ。それなら私の部屋でいい」
「使ってもいないベッドで治療をさせられないからだよ。だからアタシの部屋に連れて行く」
「だったら医務室で良い」
「薬品の臭いが苦手なんだろ」
 確かにそう言って医務室を出たのだ、何も言い返せずに大人しく運ばれるしかなかった。
 カトリーヌは途中ですれ違った学生に声を掛けてついて来させた。青獅子学級の女生徒で、シャミアも面識があった。
「シャミアさん! 大丈夫なんですか」
「大丈夫さ。何日か休めばすっかり治るよ」
 部屋まで来ると、その生徒に扉を開けさせる。そのままシャミアのブーツを脱がさせ、毛布を上げさせる。
 カトリーヌはシャミアをベッドに横たえた。
「悪いが、マヌエラを呼んできてもらえるかい。シャミアの件だと言えば伝わるはずだ」
「分かりました」
「ああ、そうだ。もうこっちに戻ってこなくて大丈夫だからさ、これを持って行きな」
 そう言ってテーブルにあった小さな包みを持たせる。
「お礼だよ。この間買ったんだ、食べてくれ」
「ありがとうございます!すぐにマヌエラ先生を呼んできますね」
 そう言って彼女は半ば翔けるように部屋を出て行った。
「マメなやつだな」
「これくらいやっておいてもバチは当たらんよ」
 やれやれ、とシャミアは部屋の中を見回した。
 シャミアの部屋より一回りほど広い。テーブルやイスは同じもののようだが、ベッドはそれより大きい。
「それは別に買ったんだ。夜はちゃんと眠らないとな。アタシらは、体が財産だ」
 広いだけでなく、シーツや毛布の肌触りも良い。質の良いものを丁寧に手入れしているようだった。
 興味を覚えて軽く周囲を見渡す。
 それほど多くの物があるわけではないが、部屋は適度に散らかっていて逆に落ち着けそうだ。さっきの女生徒に渡した菓子もそうだが、部屋にある物はどれも品がある質の良い物だった。
「さすがは貴族の出か」
 大っぴらに明らかにすることはなかったが、カトリーヌというのが偽名で、彼女が貴族の出身であることをシャミアは知っている。
「何か言ったかい」
「何でもない」
 マヌエラが来るまでもう少し掛かるだろうと、一旦は寝かしたシャミアを座らせ、水を入れたグラスを差し出した。
 礼を言って受け取り、一気に飲み干す。熱のせいか、ひどく美味く感じられた。
「もう一杯いるかい」
「ああ、頼む」
 このグラスも、意匠はシンプルだが上質なものだ。
 野営中には粗末な食事をし、安酒を平気であおって馬鹿騒ぎに加わったりもするが、きっと彼女の本質はやや活発ではあっても育ちの良い「お嬢さん」なのだろう。
 不意に頭をよぎった「お嬢さん」という発想に思わず吹き出してしまった。
「何だよ、人の顔を見て笑うなんて、失礼なヤツだな」
「いや、すまん。何でもないんだ」
「ま、いいけどさ」
 まだ飲むか、と訊かれるのには丁寧に断った。
「要らない布があれば出しておいてくれないか」
「構わないけど、何だい?」
「このままだとベッドを汚してしまうからな」
「少しくらい汚れたって構わないさ」
「たぶん、少しでは済まない」
「分かったよ、ちょっと探してくる」
 古くなって使わない毛布を持ってきたカトリーヌに、水を張った桶や火など、必要な物を用意してもらっているうちにマヌエラがやってきた。
「遅くなってごめんなさいね。どうかした?」
「化膿しているようで、ひどく痛む」
 マヌエラは腕の包帯を解いた。包帯の下から現れた腕の様子に息を飲む。
「こいつはひどい」
 思わずカトリーヌが呟いた。
 化膿して真っ赤に腫れ、肩から肘に掛けて、二周り近く膨れ上がっている。
「これは……」
「分かっている」
 狙撃に使われたのは鉄の矢だった。威力はそれほどではないが、真新しい物でなく手入れが悪い場合、このように傷口がひどく化膿する。最悪の場合、腕を落とす羽目になる。弓兵によっては、わざとそういう矢を使う者もあった。
「……用意はできているみたいね」
 先ほどカトリーヌに用意させた毛布や桶を見やってマヌエラが言った。
「ああ、頼む」
「カトリーヌ、手伝ってもらえるかしら」
「何をすればいい? 言ってくれ」
 カトリーヌが頷いた。
 マヌエラとカトリーヌが準備を進める間に、シャミアはハンカチを借りて噛み締めた。
「始めるわよ」
 マヌエラの声に、シャミアは頷いた。
 覚悟は決めていたが、刃が腕の傷口の近くを抉った瞬間、衝撃に身体が跳ね上がった。マヌエラの妨げにならないよう、渾身の力でカトリーヌが腕を押さえ込む。
「……っ……ぁ……!」
「シャミア!」
 どろりと生暖かい感触が腕を伝い、嫌な臭いが鼻につく。舌を噛まないようにと噛みしめたハンカチのおかげでくぐもった悲鳴だけがもれる。
 もうやめてくれと叫ばずに済んでいるのは、ただ声が出せないからに過ぎない。
 身動きが取れないようきつく抑え込んでいるカトリーヌの腕に手を掛け解こうとするが激痛で力が入らない。弱々しく掴むのが精々だ。
「カトリーヌ、手を緩めないで頂戴。苦しむのはシャミアの方よ」
「分かっている……シャミア、もうしばらく耐えてくれよ」
 力は一切緩めないまま告げるカトリーヌの方こそ苦しげだった。
 一度切った場所から出せるだけの膿を出し、新たに刃を立てる。
 絞り出すように膿を出させていく。
 涙を流しながら、地獄のような痛みに耐え続けた。
 ようやく施術が終わり、マヌエラは使用した道具を軽く洗うために席を立った。
「終わったよ」
 顔を覆った右腕を下ろそうとしないシャミアに、カトリーヌが声を掛ける。肘の辺りに触れた。
「シャミア」
「少し待ってくれ……みっともない顔を見られたくないんだ」
「何がみっともないのさ」
「……怪我など初めてではないのに、泣き喚いた自分が恥ずかしい」
「そんなのはみっともなくなんてないよ」
 すぐ側に腰を下ろす気配がした。
「旨い料理は何度食べでも旨いし、美味い酒は何度飲んでも美味いだろ。怪我なんて何度やってもそのたびに痛いに決まっている」
 カトリーヌらしい例えは、少しおかしくて気持ちがほぐれた。
「だから、この手をどけなよ」
 そっと腕を下ろさせられる。ほつれた髪を梳いて戻そうとする所作は、雷霆を扱う手と同じものとは思えないくらい優しかった。
「すまん」
「貸し一つ、それだけだ。気にすんな」
 そう言ってカトリーヌは笑った。
「落ち着いたかしら」
 治療に使用していた道具をしまい、手指を洗って戻ってきたマヌエラが尋ねる。
「ありがとう、助かったよ」
「夜にまた様子を見にくるけれど、何かあったらすぐに呼びに来て頂戴」
 カトリーヌが頷いた。
「夜はどちらの部屋に来れば良いかしら?」
「ここに頼むよ」
 私の部屋、というシャミアを遮ってカトリーヌが言った。今のシャミアに言い争うだけの余裕はなく、軽く息を吐いて黙った。
 ベッドに敷いていた汚れた毛布は丸めて処分した。
 腕には清潔な包帯が巻かれている。
「このままベッドは貸すからさ、ゆっくり眠って休んでくれ」
 肩まで毛布を掛けながらカトリーヌが言った。シャミアは一つ息をついた。
「休めと言うなら、ベッドは止めてくれ」
 半ば懇願するように言う。
「もうずっと、ベッドは使わずにいたんだ。座って休ませてくれ」
「言っただろ。それじゃあ休まらない。休んだつもりでも、体への負担が大きい」
「頼む。ベッドで眠るのは……怖いんだ」
「怖い? どういうことだい」
「傭兵を始めて半年の頃に、私に仕事を教えてくれていた女性が死んだ」
「……相棒か?」
 いや、とシャミアは首を振った。
「まだ駆け出しとも言えない、一人前どころか半人前ですらなかった頃だ。一から十まで彼女に教わっていた」
 家が貧しく、口減らしのために傭兵団に売られた。兄は既に働きに出ていたし、妹たちはまだ幼かったため、選ばれたのがシャミアだった。
 右も左も分からないまま放り込まれた傭兵団で、仕事の基本を教えてくれたのは、今のシャミアほどの年齢の女性だった。
 彼女も射手で、シャミアに弓を教えてくれた。弓だけではなく傭兵としての戦い方や生き方、雇い主との交渉の仕方など、完全に理解することはまだ難しかったが、それでも必要なことのほぼ全てを彼女から教わった。
 寝る時にはベッドに横にはならず、壁にもたれていつでも戦える態勢で眠るようにと教わったのも彼女からだった。
「敵は外から来るだけとは限らないものよ」
 その教えに、シャミアはその後何度も救われた。
「あと三年もしたらきっと良い傭兵になるわ。親の借金を返し終わったら一緒に独立しましょ。相棒にしてあげる」
 彼女はある日、ひどい風邪を引いた。看病をすると言ったが断られた。
「あなたにうつすわけにいかないでしょ。一晩休めば治るから」
 その夜、根城にしていた宿屋が襲撃された。跳ね起きると同時に目の前で剣を振りかぶっていた男の喉に短刀を突き立て、倒れるのを見届けることなく彼女の部屋に駆け込んだ。
 そこで、ろくに抵抗もできないまま惨殺された彼女を見つけた。
 幹部のほとんどを失い、傭兵団は壊滅した。
 その後、生き残った仲間たちと共に他の傭兵団に加入し、シャミアは三年程で独立した。
「あの時の、真っ赤に染まったベッドを今でも忘れられない」
 いつもは同じ部屋で座ったまま眠っていた彼女が、シャミアが知る限りたった一度、ベッドで寝ようとして、殺された。
「そりゃあ、まあ、何とも」
「気にするな」
 歯切れ悪く言葉を紡ぐカトリーヌに、笑ってみせる。
「もう昔のことだ。ただ……臆病なんだ、私は」
 どれだけ安全だと言われても、ベッドで眠ることには抵抗がある。一晩の眠りが永遠の眠りになることが、現にあったのだ。
「よし、じゃあこうしよう」
 カトリーヌは毛布を剥いだ。ベッドを出ることを許されたのかと起き上がろうとするところを止められる。
 カトリーヌは膝でベッドに上がるとシャミアの体を壁際まで移動させた。右肩から右の足首までが壁に密着する。
「何のつもりだ」
 カトリーヌはそのままベッドに横になった。
「おい」
「これでどうだ?」
「何が?」
 こっちの方が良いか、と言いながらカトリーヌは仰向けから横を向き、シャミアに背を向けた。
「そっちは壁で、こっちはアタシだ。少しは安心できるだろ?」
「何を言っている」
「いつも戦場で互いの背中を預け合ってるんだ、アタシの背中がすぐ側にあれば安心できないかい」
 互いに触れるか触れないかのギリギリの距離に、カトリーヌの背中がある。戦場で常に見詰め続けている、相棒の背だ。
「ダメか?」
「……暑い」
「我慢しな」
 シャミアよりも背が高く、骨格もしっかりしたカトリーヌの存在感に安心を覚える。
「これだけ近いんだ、顔を見せろ」
 肩を掴んで言うと、カトリーヌは左手に触れないよう気を遣いながらシャミアに向き直った。
 吐息がかかりそうなほどの距離に、カトリーヌが顔を赤くした。
「ちょっと緊張するね」
「そうか? 私はそうでもない」
「……眠れそうかい」
「たぶん、少しは」
 右手を回し、カトリーヌの胸元をつかむような形になった。頭をカトリーヌの胸にもたれさせる。
 今は発熱しているものの、普段はシャミアよりも体温が高いようで、その温かさに安心する。
 少しは眠れるかもしれない、そう思いながら目を閉じた。


 目を開けると、シャミアの姿勢はそのままで、隣のカトリーヌも微動だにしていなかった。
「どれだけ寝ていた?」
「もう夜だよ。さっきマヌエラが来たが、一度戻ってもらった」
「起こしてくれて構わなかったのだが」
「二人でアンタの寝顔を眺めていたよ」
「は?」
「冗談だ」
 そう言って笑うと、カトリーヌは胸元を掴むシャミアの手を剥がして起き上がった。体の下敷きにしていた右腕が痺れているらしく、肩を回す。
「何もこの時間までつき合わなくても、途中で起きれば良かったんだ」
「そしたらアンタを起こしちまっていただろ?」
「確かに、そうかもしれないが」
 恐らくカトリーヌが少し身じろぎするだけで目を覚ましていただろう。だからといってあのような不自然な体勢でシャミアの左腕に触れないように気を遣いながら、長時間身動きもせずに過ごしてくれたのか。
「悪かったな」
「気にすんな、って言ったろ」
 ベッドを降りようとしたカトリーヌの動きがふと止まった。
「やっぱり、ちゃんと言っておかないとな」
「どうした?」
 わずかな逡巡の後、カトリーヌがベッドに腰掛けたまま、真剣な表情になった。
「ごめんな。アンタの怪我はアタシのせいだ」
「別にお前のせいではないが」
「いや、アタシのせいだ」
 カトリーヌは首を振った。
「あの時さ、アンタは前方と横から敵が来ていることに気づいてたろ?」
「ああ」
「前からの敵はアタシを狙ったもので、横から来ていた奴らはアンタを狙っていた」
 シャミアは頷いた。
「アンタが前の敵を狙えと言うので従ったが、アタシの援護をしたせいでアンタは自分を狙う奴らへの対応が遅れちまった。それで怪我をした」
「……少し違うな」
 やれやれ、とシャミアは息をついた。
「敵が二方向から来ていたのは確かだし、あいつらが狙っていたのがお前と私、別だったのも確かだ」
 そんなことを気にしていたのか、とシャミアは思う。
「あの時、お前を狙っていた奴らは私の射程内にいたが、私の敵はまだ射程範囲外だった。だからそっちを先に対処した」
「あの一瞬でそんな細かいところまで分かるのか」
「私は弓兵だ。当然だろ」
 カトリーヌは肩をすくめた。
「あの時、私の敵に対していればその隙に前から来る敵に間合いを詰められていた。そこに、横の敵への矢が外れでもしたら目も当てられん」
 まぁ、とシャミアも肩をすくめてみせる。
「前方の敵に気を取られて横からの敵の姿を見失ったのは、完全に私のミスだ。下手をすればお前にも危険が及んだかもしれない。こちらこそ、許してくれ」
「アンタがそう言うなら信じるけどさ、もしどっちも同時で片方しか守れないようなことがあったらどうする?」
「無意味な仮定だが、私は私を守る。当然だ」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
 シャミアが即答してみせると、カトリーヌは笑って頷いた。
「とにかく、私の怪我にお前が気を病む必要はどこにもない」
「ああ、分かったよ」
「だからそろそろ部屋に戻っても構わないか」
「それとこれとは話が別だ。何もアタシのせいで怪我をさせたと思って連れてきた訳じゃないよ」
「そうか」
 何故か、少し嬉しかった。
 しばらくするとマヌエラが来て、傷を確認して包帯を巻き直した。
「顔色も良くなったみたいね。よく寝られた?」
 そう言ってクスクスと笑うのを見て、先ほどのカトリーヌの言葉は冗談ではなかったのだろうと思った。さり気なく視線を逸らしている彼女を見て確信する。
 わざとらしく大きなため息をついてみせた。
「お陰様で」
「出血は随分多かったのだから、しばらくはゆっくり休みなさいね。また明日来るわ」
「分かった、ありがとう」
「カトリーヌ、ちゃんと見ておいてね」
「大丈夫だ、任せてくれ」
 何かあったら呼びに来て頂戴、とマヌエラは昼間と同じことを言った。
 マヌエラを送る、と部屋を出たカトリーヌは程なく、大量の料理を載せた大皿を手に戻ってきた。一人ではやはり横になる気になれなくて起き上がったままだったが、カトリーヌは何も言わずに料理を載せた皿を見せた。
「食べられそうな物はあるかい」
 肉や魚、手当たり次第に載せてきたようだ。
「片手で食べられる物を」
「何だよ、アタシが食べさせてやるよ」
「自分で食べられる」
「遠慮すんなって、ほら」
 好物のフォドラキジのローストを一口大に切って口元に持ってこられれば食べないわけにはいかず、素直に口を開ける。
「お前……弟か妹がいるだろう」
「弟がいた。兄もいたけどさ」
「だろうな」
 次々と料理を口の中に放り込まれる。
「飲み物が欲しいな。酒は持ってこなかったのか」
「アンタなぁ。怪我人に酒なんて飲ませられるわけないだろ」
「少しくらい飲んだ方が、気付けにもなる」
「完全に出血が止まるまではダメだ」
 そう言って冷やした茶を渡された。喉ごしはすっきりとしていて、食事によく合う。
 酒でないのは残念だが、これはこれで悪くはない、と思っていたらカトリーヌは葡萄酒を開けた。
「ずるいぞ、カトリーヌ」
「アタシは怪我なんてしていないからね」
「一口くらい良いだろう」
「ダメだよ。その代わり、良い物を用意しているよ」
「良い物? 何だ?」
 たぶん、もう少し、とカトリーヌが言いかけると、扉をノックする音が聞こえた。
 応対したカトリーヌが戻ってきた手に、見覚えのあるガラスの器があった。
「好きだろ?」
 小さな器に入っているのは桃のシャーベットだ。食堂の人気メニューで、シャミアも気に入ってよく食べている。
 食堂から運ぶ間に表面は少し溶けてしまっているものの、味が変わるわけではない。
「ありがたい」
 まだ熱が下がりきっていないこともあり、カトリーヌがスプーンで掬って食べさせてくれるデザートは極上だった。
 更に二口、嬉しそうに食べているシャミアを見てカトリーヌが尋ねた。
「一口もらっていいかい」
「ああ、どうぞ」
 元はといえばカトリーヌが手配してくれたのだ。一口くらいどうということはない。
「悪くないね。食後にいい」
「だろう?」
 残りはシャミアの口に入れて、カトリーヌは立ち上がり、皿やグラスを片付ける。半分ほど残った葡萄酒が仕舞われるのは恨めしかったが、先ほどのシャーベットのおかげでさほど気にならなくなった。
「傷の具合はどうだ」
 皿は明日返しに行くのだろう、テーブルに置いたカトリーヌはベッドの端に腰掛けた。
「もう何ともない、というわけにはいかないが、かなり楽になった」
「熱もだいぶ下がったみたいだ」
 腕を伸ばし、額に手を当てて安心したように笑う。
 気を緩めていることもあるが、全く無防備な状態で触れられるのが嫌ではないことが、シャミア自身も意外だった。体力的に弱っていることもあるし、その弱りきった姿を見られてしまったこともあるだろう。
「もう寝ちまいな」
「まだ随分早い」
「起きていたって、やることがないだろ?」
 確かに、武器の手入れもできないし、本を読む気にもなれない。少し酒でも飲めればよかったが、先ほど禁止されたばかりだ。
 そうするうちにもカトリーヌはタオルを濡らして戻ってきた。
「熱だってまだ下がりきっていないだろ」
「それはそうだが」
 自身の体調が万全でないことはシャミアがよく分かっている。
「ほら、横になりな」
 そう言って横になりやすいように介助される。
「えっと、それとな」
 シャミアを寝かせると、カトリーヌは照れたように頭をかいた。
「一人で大丈夫かい」
「……大丈夫なものか」
「そうか」
 微かに笑ったカトリーヌがベッドに上がり込む。
「どっちを向いたらいい?」
「好きにすればいい。楽な格好で寝ろ」
「そうかい」
 昼のように安心が欲しくはあったが、あれではカトリーヌが休まらない。昼に言っていた通り、体が財産だ。
 それじゃ、とカトリーヌは昼間と同じようにこちらに向いて横になった。
「お前が休まらないだろう」
「そんなことはないよ。アンタの顔が見られるなら十分に休める」
「恥ずかしいことを言うな」
 シャミアは安心して目を閉じた。これならきっと、眠れるはずだ。
 夜明け前、痛みにシャミアは目が覚めた。夕食後にマヌエラからもらった薬を飲んだものの、効果が切れたらしい。
 すぐ側でカトリーヌか眠っている。薬を飲みにベッドを降りたかったが、そうすればきっと起こしてしまう。彼女は恐らく、昨晩ほとんど眠っていないはずだ。
 そうするうちにも痛みはひどくなってくる。
 いよいよ耐えられなくなり、シャミアは右手親指の付け根を噛んだ。漏れ出そうになる声を辛うじてかみ殺す。
「……ぅ……あ……」
 しばらく耐えていたが、一向に収まらない痛みにわずかに呻いた。
「どうした、痛むのか」
 カトリーヌが飛び起きた。シャミアは頷いた。
 カトリーヌは裸足でベッドを飛び出し、水を入れたグラスを持って戻ってくる。シャミアの半身を起こさせ、マヌエラに渡された薬を飲ませた。
「マヌエラを呼ぶか?」
 シャミアは首を振った。
「大丈夫、だ。直に落ち着く」
 何度か深呼吸をするうちに薬の効果が出てきたらしく、少し楽になった。負傷して一日しか経っておらず、昼には膿を出すために数カ所切開している。薬で傷みが引くといっても、耐えられる痛みになるだけのことだ。
「もう大丈夫だ」
「右手を出しな。そっちの手当をするから」
 言われて手を見ると、さっき噛みしめた親指の付け根あたりが出血していた。
「これくらい、どうということはない」
 そう言って引こうとした右手を掴まれた。手際よく薬を塗って包帯を巻く。
「ありがとう、助かった」
 使用した薬を棚に戻し、カトリーヌはベッドに戻ってきた。
「シャミア」
 強張った顔でカトリーヌが言った。
「言っておくが、アタシは怒っているんだ」
「……起こしてすまなかった」
「違う、そうじゃない!」
 カトリーヌは声を荒げる。
「何でアタシを起こさない! 痛むなら、ちゃんと起こせ。そのためにアタシがいるんだ」
「すまなかった」
「アタシを起こさないようにと気を遣ったんだろうけど、逆だよ。アンタが起こしてくれないなら、アタシは寝られない。アンタが起こしてくれるなら、アタシはちゃんと寝られる」
 カトリーヌは柔らかな声で続ける。
「頼むから、アンタ一人だけで苦しむのはやめてくれ」
「分かった」
「絶対だぞ。今度こんなことをするなら、アタシは一睡もせずアンタを見張ることにするからな」
「変わった脅しだな」
 カトリーヌは笑った。ようやく笑ってくれた。
「さ、朝までちゃんと寝よう」
「ああ」
 毛布を掛け、今度は二人で朝まで眠った。


 その後二日間、カトリーヌの部屋で過ごした。
「アンタが落ち着くまで、騎士団の仕事は休ませてもらってる」
 そう言ってカトリーヌは甲斐甲斐しく世話を焼いた。毎回食堂に食事を取りに行き、腕が不自由なシャミアに食事させる。
 シャミアは不要だと言ったが身体を拭き、着替えを手伝う。
 これまで何度も負傷したが、これほどゆっくりと治したのは初めてだった。いつも翌日には痛む身体を引きずりながら仕事に戻っていた。
 あれ以来マヌエラは毎朝晩様子を見にきたが、今日の夜には「野生の動物みたいね」と傷の治りを保証した。
「そろそろ自分の部屋に戻ろうと思う」
「もう大丈夫かい」
「ああ。いつもよりゆっくりさせてもらった」
「アタシの部屋で過ごすのも今晩までか」
「そうだな」
「……無理やり連れてきたが、この部屋で過ごすのは嫌だったか」
 こちらを窺うようにカトリーヌは尋ねた。シャミアは静かに首を振る。
「いや。おかげでゆっくりできた。助かった」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
 痛みはあるものの出血はほぼ止まったので、夕食には軽くではあるが酒も飲んだ。
 二人並んでベッドに入るのにももう慣れた。勿論、カトリーヌが隣にいるときだけだ。彼女が部屋を出ているときなどは決して横になることはなかった。
 二人はそれぞれ仰向けになった。今日までかと思えば少し寂しくもある。
「アンタの先輩が亡くなった時、さ」
「昔の話を蒸し返すな」
「やっぱり泣いたかい」
「まだ子どもだったからな」
「そうか。子どもの頃のアンタってのも見てみたかったね」
「今の私で満足しろ」
「ああ、そうだ。今のアンタは、子どものアンタの延長だからな」
 そう言ってカトリーヌは笑い、身体をこちらに向けた。
「じゃあ、さ。アタシならどうだい?」
「何の話だ?」
「アタシが死んだら、アンタは泣くかい?」
「泣かん」
「嘘を付け。きっと泣くよ」
「……下らん」
 カトリーヌは尚も詰め寄った。
「ちょっとくらい考えてみてもいいだろ」
「断る」
 つまらん奴だな、とカトリーヌが笑った。
「例えば、ほら。アタシが血濡れで倒れていて、アンタがその側で立ち尽くしている。そうなったら絶対に泣くだろ、アンタ?」
 ぞわり、と肌が粟立った。
 あの夜のことは今でも忘れられない。
 数刻前にはいつものように笑いかけてくれた彼女が、物言わぬ抜け殻となってベッドに横たわっていた。何も写さなくなった瞳は恐怖に見開かれていた。
 毛布も真紅に染まり、ベッドの下には血だまりができていた。
 あの喧噪の中で聞こえていたはずがない、血の滴る音が聞こえる。
「……やめてくれ」
「シャミア?」
 微かに震えたシャミアに、カトリーヌが手を伸ばした。
「うるさい、触るな」
 胸が苦しい。鳩尾の辺りが痛い。目の奥が熱い。
 壁に向かって横を向く。突然の動きに傷ついた腕が痛んだが、カトリーヌに知られないよう、上げかけた声をこらえた。
「すまない、調子に乗りすぎた。今のは無神経だった」
「知るか。好きにすればいい」
「本当に悪かった」
 カトリーヌが毛布を掛け直すのが分かったが、それに応える余裕はなかった。
 相棒に、と言ってくれた人をなくした。
 最初の相棒をなくした。
 もう誰かを失い、心を惑わせられることはしたくないと思っていたところに現れたのがカトリーヌだった。
 そのカトリーヌを失うことを想像をしろというのは、冗談であっても残酷なことだった。
 その夜はほとんど眠れなかった。隣のカトリーヌも寝ていないことは分かっていたが、互いに何も言わずに夜を明かした。
 明け方頃、ほんのわずかに眠った。
 朝になると、この数日と同様カトリーヌは食事を取りに行った。戻って来ると、桃のシャーベットを差し出した。
「昨日は悪かったよ。あんなコトは冗談でも言うべきじゃなかった」
「……朝からこんなものを食べたら腹を悪くするだろう」
「ああ、そうだな」
 しゅん、とうなだれて差し出した器を引き戻そうとするカトリーヌの手を掴んだ。
「半分手伝ってくれ」
「任せろ」
 カトリーヌが笑った。


 短くはあるが激しい戦闘の末、カトリーヌがその場に崩れる。シャミアが駆け寄った。
「カトリーヌ!」
 倒れたカトリーヌの側に跪くと同時に、喉元に短刀を突き付けられた。
「無防備すぎるよ。アンタらしくもない」
「お前になら、構わないと思った」
「それは光栄だ」
 カトリーヌ自身、本気で狙った訳ではないだろう。
「なぁ、シャミア。アタシに免じて、レア様は助けてくれないか」
「それはできない」
 シャミアの即答にカトリーヌが微かに笑った。
「今から死んでいくアタシに、嘘の一つも言って安心させてやろうとは思わないのかい」
「……お前に嘘などつけない」
「そっか。さすがは相棒だ」
「元相棒、だ」
「相変わらず、細かいやつだな」
「お前が大雑把すぎるんだ」
 かつて何度も繰り返したとりとめのない会話が懐かしく、恋しくて愛しい。
 手にしていた短刀を放り出して、カトリーヌは右手を上げた。その指先がシャミアの輪郭にそっと触れた。五年ぶりの、そして恐らく最後の感触にシャミアはわずかに震えた。
「アタシが言えた義理じゃあないけどさ」
 震えを気取られぬよう、触れられた手に自らの手を重ねる。 
「アンタ、本当に顔色が悪いよ」
「誰のせいだと思っている」
「アタシのせいか。そいつは光栄だね」
 そう言ってカトリーヌは笑う。
「新しい相棒を見つけてさ、夜はちゃんと寝なよ」
「断る。もう相棒なんてこりごりだ」
「そいつは悪いことをした。不甲斐ない相棒で悪かったね」
 微かに笑うと、カトリーヌは大きく息を吐き、美しい空色の瞳を永遠に閉じた。頬に触れていた手が力を失う。
「……お前は私にとって最高の相棒だ」
 それを伝えてやれば良かったのだろうか。
 最高で最後の、無二の相棒をシャミアはこの時に失った。
 シャミアは立ち上がり、空を見上げた。
「見ろ。やはり私は泣いたりしない」


 帝国が全土を統一して半年ほどして、シャミアは軍を辞めた。この半年の戦いはヒューベルト指揮の元に行われる、所謂「闇に蠢く者」たちとの陰の戦いだった。
 「元生徒」たちはほとんど加わることはない。彼ら、彼女らは光の世界で英雄として讃えられるべき存在だ。
 半年前まではシャミアもその表舞台で戦ったが、自分が戦う場所はそこではないことを知っていた。そして、この戦いこそがシャミアの得意とするところだった。
 謀略、詐術、暗殺。
 皇帝親征では見られなかった暗い戦いで、シャミアは大いに活躍した。
 敵をほぼ根絶やしにした頃、シャミアは辞意を申し出た。
 残念だわ、と若き皇帝は言った。シャミアの辞意を知って声を掛けてきたのだ。
「私としては、あなたにはずっととどまって欲しかったのだけれど」
「もう必要ないだろ。私のような人間を必要としない世の中であるべきだ」
「そうね。あの者たちを一掃してくれたのだもの」
 ヒューベルトからどこまで聞いているのかは分からないが、この半年のシャミアの働きは知っているようだ。
「辞めると言うなら、お礼をしないと」
「必要ない。十分な報酬はもらった」
「信賞必罰というでしょ。吝な皇帝だと思われたくないもの」
 働きに対する報酬は満足できるものだった。辞意を示した後に支給されることになった金銭も、これから後暮らすには十分すぎる。
「でもこれは、私個人からよ。お礼と言うよりははなむけ、と言うべきかしら」
 そう言って布で包まれた長細い物を差し出された。一瞬、その中身に思い当たるものがあったが、まさかと首を振る。
 受け取って包みを解いた。それは予想した通りの物だった。
「駄目だ、もらえない。これは」
「私達はもう、英雄の遺産などというものを必要とはしない。必要とする人の元に戻すべきだわ」
 英雄の遺産と呼ばれる武器は、全て回収され、皇帝の物となった。あの日、カトリーヌの手から零れ落ちたこの雷霆も同様だった。
 そして今、シャミアの手の中にある。
「受け取ってもらえるかしら」
「ああ……感謝する」
 手の中の剣はシャミアには使えない。重く、そして懐かしい。
「そのような時が来ないことを願うが、私の力が必要になれば、いつでも呼んでくれ」
「ありがとう。ああ、一つだけ」
「なんだ」
「できれば、ヒューベルトには黙っておいて。きっとうるさいから」
「誰がうるさいと?」
 当然シャミアはその気配に気付いていた。なので、彼も承諾しているのだと思っていた。
「その剣はシャミア殿には使えない。違いますかな」
「その通りだ」
「でしたら私はなにも言いますまい」
 シャミアは自室に戻った。この部屋も二、三日後には引き払う。荷物はほぼまとめ終えていた。元々物のない部屋だ。
 シャミアはベッドに腰掛け、雷霆を覆う布を解いた。
 この剣を振るうカトリーヌの後ろ姿をずっと見ていた。見続けるのだと思っていた。
 道を違え、剣を振るうカトリーヌと相対した。
 そして、失った。
「……カトリーヌ」
 ベッドはまた寝るためには使用されなくなった。
「シャミア、いい加減ベッドで寝ることを覚えてくれ」
「なら、寝かしつけてみろ」
 カトリーヌはこの部屋を訪れ、シャミアをベッドに放り投げて共に眠るようになった。
 シャミアが酒や菓子を口実にカトリーヌの部屋を訪れることもあった。
 あの頃、互いの道を違えるまでは床で眠ることはほとんどなくなっていた。
 もう随分昔のことのように感じる。いや、実際に昔のことだ。
 シャミアは雷霆を抱きしめた。もはやカトリーヌの熱を感じるはずもない。だが、そこには確かにカトリーヌがいた。
「カトリーヌ……!」
 あの日、血濡れで倒れた姿が蘇る。彼女の清廉さを表す白い鎧が真っ赤に染まっていた。
 血の赤と炎の赤。
 カトリーヌを想い、シャミアはこの時初めて泣いた。


 扉をノックする音があった。
「シャミアさん! 来ちゃいました」
 ガルグ=マクを出て半年ほど経った頃、ふとした切っ掛けで「元生徒」と再会した。現在の住処を教えたのはほんの気まぐれだった。
「本当に訪ねてくるとは思わなかった」
「ひどいですよ」
 明るいオレンジ色の髪をした彼女は、今では傭兵団を率いてなかなかの活躍だそうだ。士官学校時代に色々なアドバイスをしてやったこともあり、懐かれていた。
 お邪魔します、と入ってきたレオニーは物珍しそうに部屋の中を見渡した。
「何か面白い物でもあるか」
「逆ですよ。何もない部屋ですね。ま、シャミアさんらしいというか」
 そう言った彼女はある物を見つけて小さく声を上げた。
 視線の先に気付き、シャミアは触るな、と声を上げそうになったが、その必要はなかった。
 ベッドの上に転がっている雷霆を、触れることもなく近付いたり遠ざかったりしながら興味深く眺めている。
「これ、カトリーヌさんの雷霆、ですよね?」
「……ああ、そうだ」
 雷霆を振るうカトリーヌの強さを、レオニーは知っている。カトリーヌは、あの頃の生徒達の憧れだったのだ。
 触れる気配もなく矯めつ眇めつしているレオニーに苦笑しつつ、声を掛ける。
「触っても構わないぞ」
「いえいえいえ。そんなコトできませんよ、おそれ多い!」
 レオニーは手と首を同時に降って断った。器用だな、とシャミアは笑った。
「良い武器を見る機会があるなら、できるだけ触れておいた方がいい。自分が扱う武器でなくてもな」
 そう言われてレオニーはパッと笑った。
「じゃあ、少しだけ」
 ハンカチで手を拭いてから、そっと雷霆を持ち上げた。シャミアよりも余程大切に扱っている。
 何度も感嘆の声を上げながら長い時間眺めていたらレオニーは、やがてその剣を返した。
「ありがとうございました。良い物見せてもらいました。では!」
 感極まった様子でレオニーは帰ろうとした。
「……君は何をしに来たんだ?」
「あ、そうだった! つい夢中になってしまいました」
 苦笑しながら茶を出してやる。
「ありがとうございます……美味しい! 美味しいですね、このお茶」
「賑やかだな、君は」
 ジェラルド傭兵団の団長を勤めているという彼女は、シャミアからすれば学院の生徒だったときとそう変わらないように見える。
「シャミアさん、前にもお願いしましたけど、私達の傭兵団に入りませんか」
「断ると言っただろう」
「いえ、諦めませんよ! 何度だって訪ねて来ちゃいますから」
「そのつもりはない……だが、そうたな。茶の淹れ方を教えるくらいはしてやる」
「いいですね! 私、毎日来ますから!」
「……毎日はやめろ」
 いつか、彼女と共に肩を並べて戦う日は来るかもしれない。


 だが、彼女を相棒にすることはない。


 

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