王陽明先生の手紙11-1

十一、黄宗賢に与える
(正徳8-1513年、42歳 or正徳9年~)
手紙を頂き、純甫のことに触れておいででした。ご心配ひとかたでなく、友人としてのご忠告、心に沁み、誠に痛み入ります。
世風が衰微し、風俗が堕落して、友人として日頃もっとも親しみ、敬っていたものでさえ、多くが主義主張を代え、どっちつかずの曖昧な態度で世間や周りから受け入れてもらおうとする。その意思のあまりの薄弱さに、怒りを超えて憫れを催します。
そんな中にあって、君こそは、真に「道を信じること篤く、徳を執ること弘し」と言うべきです。何と得難く幸いなことでしょうか。
私が南京に赴任していたころ、王純甫と住まいがとても近かったのです。月に一度会ったり、二月も会わなかったりでしたが、会えばいろいろと気がついたことを注意したものです。それは全て真実の心から発したもので、心中些かも争いや妬みの心からしたものではありません。純甫からすれば、うるさく思ったかもしれませんが、神明に誓ってこの真心に偽りは有りません。
その後、純甫は都に転勤になりました。そのとき初めて心に引っかかりを覚え、ついでひどく自ら後悔して思いました。「我々が共に道を求めていく仲間である、このようなわだかまりをいつまでも抱いているべきではない。さもなければ、かえって世間の噂やネタにされてしまう。どうしたら良いか、今すぐにわだかまりを捨てるべきである」と。
その後、いろいろの人から言葉を伝えられました。私のために怒りをあらわにする人もおりましたが、私はただ、今申し上げたことを述べるにとどめました。実にこれは、未だ一日たりとて純甫のことを忘れるに忍びないからです。日頃の信頼の極み、友情の自然とそのようなものなのであります。それから幾許もしないうち、またお互いを知る人が北京からやって来まして、備に純甫の言うことを伝えてくれました。それを聞き、私は心ひそかに「軽薄な人々が、我々の仲間の間の隙間を利用して、それを増幅させようと企んでいるのではないか。全てが純甫の口から出たことではないだろう」と疑いを抱きました。私は出まかせを言っているのではありません。旧知の友人同士の友情というものは、本当に厚く、だからこそむやみに疑う気持ちにはなれないのです。私が日頃から純甫を深く信じているのは私情ではありません。たとえ今、純甫が私を疎んじていても、これも私情ではないです。そうだとすれば、私は未だかつて純甫への信頼は変わらず、純甫の私への信頼も変わらないはずです。その間にどんな心をもさし挟むことは出来ません。

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