東京

 やけに暑い夜行バスの車内温度を調節しているのは誰なんだろうか。3月の雪が降ってしまうような日にタンクトップでも息苦しさを感じているのは自分だけじゃないはず。

 「令和元年の人生ゲーム」を読んだ。信じられなぐらいにくらって落ち込んだ。ぜひ一度読んでみてほしい。全登場人物を容赦なく綿密にブッ刺してくだけじゃなく、自己投影してしまう部分があるのだから筆者「麻布競馬場」にはあっぱれとしか言いようがない。

 結局のところ、何者にもなれない私(というか私たち?)は何者かになるために経験という皮を被ろうとしているんだろう。本質がどうだとかはわからないのだけれど、人と違う何者かになろうとしてる時点でそれは社会という枠組みに囚われているのであり、何者かになろうとすること自体が量産型z世代思考なんじゃないか。別に何者かになる必要もないし、生きる意味を追う必要なんてあるかどうかなんてわからない。けど社会の中でいかにバリューを出すかが求められている資本主義社会において強者は生き残り、弱者は淘汰されるというのは不変の真理であるように思われる。そう、「思われる」。

そしてこうさせているのは「東京」という街じゃないかな。当たり前に人と競い、人よりも優れた自分をいかに装うかに必死で生きて、一丁前に生きるミッションなんか掲げたりしたって結局は何者でもないし、何者にもなれない、それが自分。東京という街にいる限り自分は見栄を張って、ダサい生き方をして、お金に囚われて、人を見下そうと蔑もうとする卑しい人間なんだろう。そして、これは本当は「東京」のせいなんかじゃない。「東京」という街をそうさせているのは紛れもなく自分自身で、言い訳して逃げて口だけ理想論を語って。あーださいなまじで。そもそもこのnoteだってダサい自分を刻んでおくために始めたようなものだけど。

今のこの八方塞がりな気持ちを解消するのにはまだ時間が必要そう。どうせ自分のことだから数日経ったら全部忘れて、偉そうに手も足も組みながら愛について語ったりなんてしてるんだろう。そんな自分があながち嫌いじゃない時点で、そこまで悪くないのかもしれない。

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