「成長」と「成功」

復学して2週間が経ち、段々と大学生活にも慣れてきました。4年目ですが。
構内を歩いているとよく友達に会うものの、心の底からの「何してるの?」が聞けて嬉しい一方寂しさもあります。退学したと思ってたーとか日本いるんですかーとか毎日のように言われるんだけど、そこまで何してるかわからない人でいられたことに対しての嬉しさはあるものの、いないものとして扱われているというほんの少しの寂しさがあるような気がしてて。みなさん、私は今大学3年生として勉学に勤しんでいます。

良し悪しは置いておいて最近就活をしている。いわゆる就活の軸とかを考えたりしているんだけど、「成長」と「成功」のどちらを追っているんだろうというのがここ数日感じていること。
前提として「成功」という言葉があまり好きじゃない、おそらく自分が成功できていないことから感じる劣等感だと思う。この「成功」という言葉に関しては自分自身の尺度よりも社会的な尺度が大きいように思っていて、それは「成功者になるためには」みたいな本が存在していることからわかるように一様化されちゃってる成功という言葉への忌避感がある。だから「成功」って社会的に定義されるものなのだとしたら、自分が追っているものは「成長」なんだと思う。自分自身との戦いだと感じるから。
ただ「成長」を実感できる時って「成功」した時なんじゃないって言われて納得した自分がいた。
ここから考えられることとしては、「成功」っていうのが対外の目標、そして「成長」っていうのが対内の目標であると定義づけたい。自分の中で。すなわち、対外での目標を追っている中で対内での進歩が必要とされて、そこで前に進んでいるということ自体に喜びを感じているのだと思うし、その過程で強くなれるんじゃないかな。だから「成功」を追って「成長」を求める人はパッションがあるし、バイタリティがあるんだと思う。

でも一方で、「成長」のきっかけになるものってたぶん「成功」じゃなくて「失敗」な気もしていて。素敵だなと思う人とかって「失敗」をしたことから学んで進んで「成長」に繋げているというように思えるし、実際にそう言われることが多い。

それでいうと直近の大きなテーマとして「失敗をしていこう」というのがあって、大教室の授業で質問したり発言したりするように意識している。これが大きな勝負なのかは別として。だとすると、勝負の相手がいるのかどうかみたいな部分で自分自身との勝負に関しては不快感なく行える一方で、他人との勝負に対しての圧倒的な勝負弱さを自分自身で認識しているからこそ逃げたいという気持ちがあるのかもしれない。

さらにここから紐づいて「負けること」は「失敗」なのか、という論点もあるのだけどそれはまた今度考えていければと思う。例の如くまとまりはないけど、プロット的に書いてみた。次は期間空けずに書く。ではまた。

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