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【 東京十社めぐり:No.5 】 芝大神宮(港区芝)

2022年2月を過ぎ、前厄の年となりました。そんな私ですが、今年は東京十社を毎月1か所づつ巡る【東京十社めぐり】をすると勝手に決め、先週の6月26日(日曜日)は第5回のめぐり日でした(笑)

ちなみに、十社をめぐりのに順番に決まりはないらしかったので、最初は「日枝神社(赤坂)」、第2回は「王子神社(王子)」、第3回は「亀戸天神社(亀戸)」、第4回は「氷川神社(赤坂)」、今回は「芝大神宮(芝)にしました!

東京十社とは

明治天皇が明治元年(1868)に准勅祭神社と定めて、東京の鎮護と万民の平安を祈願されたお社のことで、当初は12社が定められていました。1975年に昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行い、准勅祭社から遠隔の府中町六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、23区内の10社となったそうです。

芝大神宮とは

もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたらしいですが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至ったらしい。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称されたとのこと。

芝大神宮の歴史と人との関り

一条天皇の御代: 寛弘2年9月16日(1005年10月21日)、伊勢の内外両宮を勧請して創建し、日向国鵜戸郡から得た「鵜戸石」と剣を神宝として奉納したとされる。
源頼朝: 元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の2度に亘って神領を寄進し、特に後者においては自ら社参の上1300余貫の地を神田として寄進したとされる
足利尊氏の実弟直義: 建武4年1月7日(1337年2月8日)には、戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納したとされる
北条氏直: 天正16年7月24日(1588年9月14日)には、による柴村に対しての制札が発布された(この制札も神社所蔵)
豊臣秀吉: 天正18年7月19日(1590年8月18日)あたりに、奥羽平定のために江戸を進発するに際して戦捷を祈願したとされる
徳川家康:天正18年8月1日(8月30日)、江戸入府に際して社参、翌19年11月28日(1592年1月12日)、武蔵国日比谷郷に社領15石を寄進した。慶長3年(1598年)8月、増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地(港区芝大門)へ奉遷し、翌々5年9月1日(1600年10月7日)、家康は関ヶ原出陣に際し、社参して戦捷祈願をし、同19年から20年にかけての大坂の陣では、徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として、家光の乳母である春日局が社参をしている

夏越の祓(なごしのはらえ)のタイミングでした!

「夏越の祓(なごしのはらえ)」は、一年の折返しにあたる6月30日に各地の神社で行われる季節の行事です。1月〜6月までの半年分の穢れを落とし、残りの半年の無病息災を祈願するとのこと。夏越の祓では、「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」と「人形の奉納」の2つの特徴的な行事が行われるとのこと。

「茅の輪くぐり」とは

神社の境内に立てられた直径数メートルほどの大きな輪をくぐります。輪は茅(ちがや)という草で作られており、これをくぐって身を清めます。茅の輪をくぐるときは、決められた作法があります。「水無月の夏越の祓する人は、千歳の命延(の)ぶというなり」と唱えながら、左回り→右回り→左回りの順で、8の字を描くように3回続けてくぐります。

人形(ひとがた)の奉納とは

① 人形に、名前と性別、年齢を書きます。特に決まりはなく、一続きに書いても、改行して書いてもかまいません。
② 書き終えた人形で、頭からつま先まで、全身を丁寧になでます。具合の悪いところがある場合は、その場所をとくに念入りになでます。
③ 続いて、人形に息を3回吹きかけます。これによって、体内の穢れを人形に移します。
④ その人形を、神社に持参して、奉納します。

歳を重ねてきましたが、夏越の祓(なごしのはらえ)を初めて知りました~💦
一年のちょうど折り返しにあたる時期に行われる「夏越の祓」、神社に行かない限りあまり知ることはないかもしれません。私もその一人でしたが、季節の変わり目で節目のタイミングですから、茅の輪くぐりをして、人形を奉納することで残り半年を元気に過ごせるように祈ることが出来て良かったです!!


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