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自死と高野山と母と愛

備忘録。
2年前ごろ、僕が3回生だったころ、2018年の夏の話。
自死を選ぼうとして選べず、それから自分を愛せるようになるまでのお話。

生きるのやめっぴ

自分を見失って、しんどくて、生きるのもういっかな〜と思ったのが7月21日の午前2時。

このnoteにも書いている通り、”生きるのもやっぱり悪くない”と思い始め立ち直ってまたすぐのお話です。
この頃も僕は、以前と同じような絶望に打ちひしがれていました。
夜は眠れないし、世界は暗いし、生きるのは辛いし、というより面倒だし。

でも以前より少しだけ強くなった僕は、そういう状態から脱する方法も知っていました。
とりあえず、朝日を浴びること。どれだけ億劫でも3食は食べること。
テニスをして汗水を流し、肌を焼き、生きてることを感じること。
映画や小説など、何かしら別の世界に没頭すること。
そうやって、延命措置を繰り返しながら、明日、また明日と、すがるように毎日を生きながらえていました。

すると、いつのまにか、心が健やかになる。日常に笑顔の数が増える。楽しいことをスケジュールに詰め込んで、やっぱり楽しくて、飲んで騒いで。
でもやっぱり夜は孤独で。強めのお酒を飲んで、酔って寝て。

そういう時間を過ごしていたた気がします。
多分、割合的には健やかな時間が8割、辛い時間が2割ぐらいだった気が。

(ここら辺で好きな子ができたのも結構大きかった気がする。とても柔らかい落ち着いた子で、割と本気で生きる希望というか、支えになってくれていた。本当に感謝しかない。)

なぜか寺ごもりをすることになった

知り合いの社会人からのお誘いで、高野山に3日間寺ごもりすることになりました。短期インターンでした。
(もう意味わからんよね、未だに俺も意味わからん)
(でも間違いなく過去最高のインターンだった)

当日の朝も行くのめっちゃダルかったけど、いつもお世話になってる方からのお誘いだったし、幸いその頃は心が健やかだったので、重い腰をあげて集合場所に、電車にゆらゆら揺られながら向かいました。

集合場所にいる顔なじみの関西で活動をしている学生たちの眩しい顔を見ながら、「やっぱミスったかな〜〜」とか思ったり、それなりに楽しく話しながらお寺に向かい。

それが、2018年の9月30日です。
あの生きるのがどうしようもなく辛かった日から、何だかんだで2ヶ月と少しが経っていました。

そんな感じで、吸い寄せられるように山に入り、寺に着き、荷物をおろしてまず、何だろう。
「あぁ、来てよかったな」て心底思ったんですよね。

高野山スローライフ

ここで余談なのですが、藤尾家は感性がビンビンの家系でして、全ては必然、運命、愛、魂、みたいな抽象度の高いとこと近い距離で生きてる人がとても多いのです。なんて言ったら良いんだろう、浮世離れしていると言うのかな。(特にばあちゃん、おかん、俺)

そんな僕と高野山、お寺の雰囲気との相性はめちゃくちゃ良くて。
自然の中で、虫の鳴き声や風が草木を揺らす音、朝の座禅の時間、、五感が冴え渡る、心が安らぐ。んな感じ。

3日間泊まらせてもらう宿坊の敷地も時間がゆっくり流れている感じがして、普段着込んでいる鎧を脱げる、ありのままで良いや〜って心から思える、そういう空間でした。

普段いるような大学や会社等の俗世とは完全に分断されている気がしたのを覚えています。まじで結界の中ってこんな感じなんだろな、みたいな。

(実際の写真。こういう宿坊でインターンしていた。左に見えるのが僕たちの泊まっていた宿舎。)

「こういう場所で余生は過ごしたいな〜」「もう出家しちゃおうかな〜」とか思ってました。
ワーク自体も、いわゆる新規事業開発体験とかケーススタディとか、「とりあえずこういうのやっといたら良いっしょ!」みたいな内容じゃなくて、仏教の知識や考え方の講義や、自分の氣や元来の性分、宇宙からの波動と向き合うといった内容でした。
(書きながらまた思った、まじ何のインターンやねんwww)

ちなみに、最終日には講座で学んだことを活かした成果物も提出しようという流れでした。確か、その会社の業績を伸ばす提案をしようというテーマだった気がします。
そういうワークショップを皆が真面目にやっているのを横目に、僕はとっても可愛いので、縁側でゴロンチョしながら陽の光を浴びて、日向ぼっこする時間を過ごしていました。

これインターン中ですよ。信じられます?
ちなみにこんな感じでゴロゴロしている僕の隣を通った社員さんは、「良いね!写真撮って良い?めっちゃ幸せそう!いいね!」みたいな感じでした。その後一緒にゴロゴロしました。流石に笑えてきた、おもろい。

ふざけたことばっか書いていますが、今になって、心底思います。

人生に何度か大きい分岐点があるとするならば、あの日、最終日前夜。
とある方と過ごした瞬間は間違いなく、その1つです。

2018年10月1日 PM23:00

最終日前夜、僕がワークを進めていた時「調子はどう?」と、とある社員さんが声をかけてくれました。30辺りの女性の方です。
最初に集合で目にした時から(素敵なオーラだなぁ。1on1で話してみたいなぁ。)と思っていたので、やったー!とか内心思いながら、他愛もない話をして。

5分ぐらいお話をしたのでしょうか。
言ってから気がついたんですけど、「こないだ、生きるのをやめようとしちゃったんですよね」と口にしていました。

今思い返すと、ある種の救いを求めていたんだと思います。その方を前にすると、心が落ち着くんですよね。人としてのやわらかさ、そしてつよさを感じる。そういう美しさ、気高さを持っている方でした。
何だろう、子供の頃悪さをして怒られんじゃないかな?みたいな感じで親の顔色を伺う、そんな気分でした。その社員の方は、優しい顔でうんうん、と話を黙って聞いてくれてました。

あらかた話しを終えると、質問タイムが始まりました。
最初の質問は、「中高の時はどんな子だったの?」
「めちゃ元気でした。部活と恋愛に全身全霊かけてました。」と返します。
以後のだいたいのやりとりはこんな感じです。

「友達は多かった?」
「割と。目立つのと人が好きなので、結構多かった方だと思います。」

「普段、1人の時間はどんなことしてるの?」
「趣味ですかね...絵とかピアノとか。皆からリクエストもらってそれ載せたり。」

「今もやっぱり不安になる?」
「なります。何だろう、毎日楽しいのは楽しいんですけど、夜が不安だったり。自分は1人ぼっちなんじゃないか、とか思ったり。」

そう返して、僕の生い立ちや性格の話をすこしした後、その社員さんは少し考え込み、こう言いました。

「よし、このインターン終わったらお母さんに会いに行こう」

僕がパニクってると、社員さんはこう続けます。
「それで、愛してる?って訊いてきな」

さらにパニクってる社員さんは笑いながら、さらに続けます。
「んでハグしてもらっておいで」

僕は、こう返しました。

「無理っすwwwwww」 

僕の家族遍歴と愛の種類の話

何を隠そう、本当にお恥ずかしいお話ですが、僕は家族とめちゃくちゃに仲が悪かったのです。
小5.6の時に親が離婚して以来、家族に対する不信感というんでしょうか、疑いというんでしょうか、別に憎んでもなかったし自分が不幸だとは思わなかったんですけど、まぁ、そうですね、反抗期ですね。

それがなんと8年続いたのです。
中学時代はまだマシでしたが、高校の時は家で世間話をしたのは多分片手で数えられると思います。記憶の限り、僕から雑談?会話?要は事務的なこと以外で声をかけたのは2回ですね。
家族とご飯に行きたくなさすぎて、予定もないのに友達と遊ぶと嘘をついて通学途中の駅にあるスターバックスで1人でフラペチーノを飲んで時間を潰すような子でした。
んで家の前で隠れて、車が出るのを見送ってから家に入ったり。

とりあえず、恥ずかしいやら気まずいやらでずっと避け続けてたんですよね。
それでも母は寛容で、別れた父の愚痴を言う事もなく、僕を必要以上に叱ることもせず、黙って、多分辛かったのを隠してずっと僕に優しくしてくれていました。(まじで情けないな、今更ながら泣けて来た)

そのまま大学に入り一人暮らしを始めたので、疎遠な状態は続き。
それでもたまにしか顔を合わせないので会った時は幾分マシにはなりましたが。

それが、大学3回になって、いきなり実家に帰って、「俺のこと愛してる?」「ハグしてくれん?」はヤバすぎません?

と思ったわけなんです。
さて、この話を社員さんにしたところ、愛の器と種類の話をしてくださいました。

まず、人間には誰しも、愛されたいという欲求が備わっていること。
その愛を溜める為の器があるということ。

そして愛には3種類の愛があると。
第一に、友愛。(フィリア)

君は優しいから、好き。話が合うから好き。要は、条件付きの愛。無意識の内にでも何かしらの条件によって、愛し愛し合う。ほとんどの関係はこれにあたる。

第二に、本能の愛。(エロス)
自分が価値を感じるものに対しての愛。自己中心的で、恋や性欲はこれにあたる。肉体的な繋がりを求めたいとか。

第三に、無条件の愛。(アガペー)
親から子供、子供から親。わんこを見た時とかもなのかな。何をされても、どう思われても、そこに条件はなく慈しみ、愛しむ、そういう愛。

さらに、愛の器の話に戻すと、仮に器がコップだとした時、その底にあたるのが、無条件の愛。中を満たすのが、友愛や本能愛。

なるほど、そういうことか、そういうことなのか。
僕は、器の底が抜けているんだ。

腑に落ちる

頭を殴られたような衝撃とはまさにあのこと。
そうか、そうだったのか、と。僕を昔から知る人は知っていると思うが、僕は中高時代、沢山の友人を作り、恋人を取っ替え引っ替えし、わざと目立つようなことをしていました。

沢山の趣味を始めましたが、どれも誰かに見てもらうことが前提のものばかり。
絵も、ピアノも。テニスだって、レギュラーになり、団体戦で試合に出る、表彰されることを追いかけていました。

あぁ、そうか、要は僕はずっと愛されたかったんだ。
誰かに認めて欲しかったんだ。必要とされたかったんだ。
求められたいんだ。愛して欲しいんだ。

でもふと思うことがあり、社員さんに訊いてました。
「僕、お母さんに愛されてるなって思いますよ?」と。

社員さんは
「そういう事じゃないのよ、ちゃんと確信をもらってくるのよ。ハンコを押してもらう的な。ちゃんと、言葉で態度で表してもらうのよ。」

あぁ、なるほど、これは逃げられないなぁ。
そしてその場で約束をしました。
家に帰ったら、真っ先にお母さんに会いに行く、と。

下山する、悩む、母に会う。

最終日前夜もそんな話をしておりましたので、最終日クソみたいなプレゼンをして、皆に笑われ、でもなぜか一番いい顔をして帰路につきました。

さて、二択。このまま大阪の実家に帰るか、一度京都の下宿先に帰るか。
迷わず、後者。京都に戻ります。

多分、怖かったんです。恥ずかしいというより、何だろう、やっぱり怖かったんですよね。
きっと愛してくれると言ってくれる。ハグもホイホイしそう。
でもそのプロセスを経ても「愛されてる」って実感が湧かなかった時、僕は本当に駄目になるかもなぁ、って。

(でもここで逃げたら多分、もっと駄目になる。)
(もしそれで駄目でも、これからも向き合い続ければいいんだ。)
(よし、帰ろう。)

そう思い、結局その翌日には実家に帰り、約束を果たす事に。
反抗期が長引いたチキンな息子vs偉大で寛容な母。

家に着いて玄関の扉を開け。
開口一番、「どしたん、何で帰って来たん」と僕の母。
「知らんわ、実家帰んのに理由いらんわ」と、僕。
出だしは最悪でした。

晩御飯を作ってくれていましたが、黙々と食べ、嬉しそうに僕を見ながら延々とクソしょうもないことを話しかけてくる母と、目も合わせず適当に返す僕。
ご飯を食べ終わったら話をしよう、そう思いながら、いつもよりゆっくり目でご飯を食べたり。

まぁでも悲しきかな、ご飯の量は有限です。
食べ終わってしまい、シンクに食器を置き、また座る。
母は驚きました。僕がご飯を食べてまだキッチンにいるという事はこれまでかつて1回たりともなかったから。

話し始めます。
でもやっぱり恥ずかしいから、
「最近お寺行く機会あってさ〜」
「なんかしんどくって〜」
「就活でさ〜、まぁインターンやねんけど〜」
「家族観を考えるワークあってさ〜」
「ワーク?ん?まぁ何でも良いねんけど〜」
みたいな感じで、うだうだ。

お母さんに「何やねん、何が言いたいん」と言われたので、まじで頑張って、勇気を振り絞って、訊いてみました。

「やっぱお母さんからしたら、子供って可愛い?」

違う。なんか違う。多分これを聞きたいんじゃない。

「当たり前よ」

ですよね、そうですよね。いや、もういけ。頑張れ自分。逃げるな。
下を向きながら、爪をいじりながら、目だけ母の方を向けて。

「俺のことも愛してるん?」

遂に言えた。
母は笑いながら、こう返す。

「当たり前よ。何ゆうてんの。めっちゃ愛してるわ」

ちらりと見えた母の顔は優しかった。
あの感情を何て言えば良いのか分からないんですけど、嬉しくて、めちゃくちゃに嬉しくて、すごく幸せで、肩の荷が全部降りた気がして、涙が溢れそうで。

まじで泣きそうになったので、一旦席を外して、玄関に逃げました。
唐突に玄関に向かう理由なんて何もないのでもう泣きそうなのはバレバレなのですが。
(あぁ、嬉しいなぁ。めちゃくちゃ幸せだなぁ。次はハグだな、もういっかな、でも今ならいけるかな。)
そんなことを思ってると、お母さんは何も言わずにすぐ僕のもとに来てくれ、黙って、何も言わず、後ろから僕を抱きしめてくれました。
こう言ってくれました。

「分かった分かった、あんたはずっとこうして欲しかったんやな」

涙が溢れました。親って偉大だなぁ。
僕の器が満たされていくのを感じました。
約束は、果たせた。

2018年の10月4日の話。

それからと、これから。

確か、その日は人生史上1番と言っても過言でないほど、よく眠れたと思います。少しだけお母さんとお酒を飲んで、他愛もない会話をしたことも覚えています。

10年ぶりかにちゃんと見た母の顔は、少しシワが増えていました。
(お母さんってこんな顔してたんだなぁ)とか思ったのも覚えています。

その後の話ですが、自信がつきました。
いわゆる自信家的な自信じゃなくて、何と言うんでしょうか。

「自分は生きててもいいんだ」って胸張って思えるようになったと言うんでしょうか。
”必要とされたい”とか、”認められたい”とか、それは今でもやっぱりあって。そう簡単に世界が変わることはなくって。
でも、そういうことより、「誰かを愛そう」という気持ちが強くなったんですよね。

寄り添い、耳を傾け、困ったらあの人の元に行こう、と思ってくれたらいいな、そういう気持ちで誰かと接するようになりました。

そんなこんなで丸くなったというか、柔らかくなった僕の変化にやっぱり仲のいい人は気づき、なんか「雰囲気が優しなった」とか、「憑き物取れた」みたいなことを何人かに言われた気がします。

さて、何でこんなnoteを今日書いてるかというと、
明日、5月29日はお母さんの誕生日なんですよね。確か、55歳の。
(ごめんオカン、年齢ばらしてもうた)
(5/29は自称、幸福の日だそうです。幸せを振りまくお母さんらしい。)

僕も来年から社会人なので、時間をとってゆっくり過ごせるのは明日が最後になるのかも知れない、そう思うと色々振り返ることもあり、noteにしてみたという次第です。

母は本当に偉大です。
離婚を経験して、一番辛かったのは母でしょう。家族の反対を押し切って、結婚して、色々ごたって別れることになりましたし、離婚の理由も理由だし。その挙句、僕はクソみたいな態度を何年も続けるし。
でも、ただの一度も父の悪口を言うこともなく。
どんだけ僕が学校で問題を起こして、停学になって、大学の内定が取り消しになりそうでも、僕と一緒に頭を下げにきてくれて。
分かりやすい形じゃなくても、自分が死んだ後も子供を守れるようにと、前からずっと準備をして、遺産や相続の手続きを勉強しながらめちゃくちゃやってくれてるのも知っています。

言うなれば、本当に愛の人なんです。
まじでカッケー人なんです。
僕がお母さんの一番好きなところは、僕の友達も我が子のように可愛がってくれることです。

お母さんは本当に面白くて寛大なので、友達もめっちゃ集まります。これは中1からずっとそう。
なので、こないだ社会人になる前に、「クソお世話になりました!」と皆でドンペリと花束とメッセージカードをプレゼントしました。

実は兄も偉大で。
散々なめて見下してた兄は家でツンツンしてる僕を見ながら、代わりにお母さんに寄り添い、「ここで俺が伸也を怒ったり突き放すと、あいつはまじで家で1人になる。俺がおらな。」とお母さんに話して、僕が家でどんな態度を取っても何も言わず黙って見守ってくれていました。
(見てますか?兄の友達。いい男でしょ?旦那にしてあげてください。)
(ちなみにそもそも当時は兄をクソ見下してたので、家族にカウントしてなかったので最初から1人のつもりでした。ほんまクソ笑)

でも、僕の方が身長高くてイケメンですし、何でもできるので、兄は雑魚です。(鼻ホジホジ)

まぁ、そんなかんだで、自分を大切にできるようになった僕。
内定辞退して休学したのも、まぁ償いになんてならないと思うけど、お母さんや家族といる時間大切にしないと絶対に後悔するな、と思ったのもあります。
卒業まで残り10ヶ月、親孝行しながら、のんびりしていこうと思います。

最後に、いつかこのnoteを読むかも知れないお母さんへのメッセージと、家族写真で締めます!

お母さん、お誕生日おめでとう〜!!
まじでテメェの子供でよかったぜ!!

おわり



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