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謙遜は美徳じゃない。

日本には、”謙遜”という文化があります。

けんそん【謙遜】
《名ノナ・ス自》へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと。(fromぐーぐる先生)

そう、賞賛を浴びて、認められても、「自分はまだまだです。」「皆さんのお陰です。」そう返し、つつましく、控えめに。

そしてその人は、誰かが何かを成し遂げた時は褒めちぎるんでしょう。
そして褒められた人は褒められた人で「いや自分なんて...」と言うのでしょう。

そうやって自分を過小評価し、相手を褒め、低く、低く。

その先に、一体何があるんだろうか。

そもそも、過小評価と謙遜は違う

過小評価と謙遜は違います。
謙遜というのは、目標を高く持ち、自分の現在地を理解した上で(改善の余地は沢山ある、目標にもまだ距離がある、もっといける)と本気で考え、「まだまだです」と言葉にするようなことです。

この、自分の現在地を把握するというのがとても重要だと思うんですよね。
別の切り口で言うと、謙遜というのは自分の現在地を理解できる人にしか許されない特権なんです。

その人なりに試行錯誤を繰り返した上での結果に「全然、自分なんて」と思ったりするのは、謙遜でも何でもなくて、ただの思考放棄じゃないでしょうか。

自分が掲げた目標に対してどんな行動をとったか、どこが良くてどこを改善できるのか、こういうことを考えず「ただ自分なんて」というのは謙遜ではなく過小評価、つまり自分の能力や目標までの距離感の位置関係を掴むのができていないということ。
出来ていないというならまだしも、ほとんどの場合は考えようとしていない、つまり思考放棄にあたるんじゃないでしょうか。


お節介の極みですが、何かしら褒められたり結果を出した時に「全然」「自分なんて」と考えてしまう人は一度考えてみてはどうでしょうか。

あなたは、ちゃんと自分の今の状態や、持っている能力、目標までの距離をある程度正確に測れているのでしょうか。

そこから、スタートなんでしょうね。その先に真の美徳とされる謙遜というのがあるんでしょうね。

っていうか、ありがとう!で良くね?

こんだけきつい事を上から目線風に書いてしまいましたが、そもそも褒められたり認められたら「ありがとう!わーい!」で良くないですか?
そっちの方が気持ちよくコミュニケーション取れませんか?

本心じゃなくても、自分の発する言葉は力は強い力を持っていますから、その言葉は僕たちを確実のその言葉の通りに引き寄せます。

全然と言ったら全然になるし、もっとやれる!と言ったら本当にもっとやれるんでしょう。
分かり易い例で言うと、「可愛いね」と毎日恋人に言われた人がどんどん綺麗になっていく、あの現象。

無理して、相手やその場を気遣って、その場を適当な言葉で繕ってやり過ごさなくても、最低でも「ありがとうございます!嬉しいです!もっと頑張ります!」ぐらいで良いと思うんですよね。

どうせなら、綺麗だねと褒められたら「でしょ!今日頑張ってきたの!わーい!びろんびろ〜ン!!」ぐらいでもいいと思うんですよね。

あまりにも社会の通念とかけ離れてる!そんなのナルシスト!できない!と思われるのも仕方ないと思うんですけど、実体も持たない概念に皆の自己肯定感を下げられるぐらいならそんなもの最初からない方が良い。

そして、自分の生き方や理想は誰かの横顔に問うものでもない、と思います。

皆で、褒め合って、認め合って、肯定し合って、その上で自分や周りへの感謝、そして自信に繋がる。
そういう社会に、いつかなったらな。というより、なればいい。

僕は毎日noteを書いてて偉いし、僕のnoteが誰かの生きやすさや自分への愛情に繋がっていることもちゃんと分かっているし、その上でもっと良いものを書ける、もっと表現を磨ける、心底そう思っています。

あなたも、そう。十分すごいし、立派だし、でももっと出来ると思うならもっと出来る、その可能性を持っている。

自分と、自分の可能性を信じて、生きていきましょ。
誰かの横顔を気にしていても、その先には陳腐なものしかないですから。

おわり


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