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さくら満開  新見正則

新見正則医院は飯田橋にありますよ

新見正則医院は、飯田橋にあります。飯田橋はホームの曲がりが急で、転落事故防止のために、ホームが新宿寄りに移動しました。そしてメインゲートが東口から西口になりました。西口を出ると、広々とした外堀が水をたたえて市ヶ谷に向けて真っ正面に見えます。正面を走る道路が早稲田通りで、右に徒歩1分で神楽坂、左に徒歩1分で新見正則医院、そして5分ちょっと歩くと靖国神社に着きます。

外堀の桜、満開です 

外堀の両側の桜は満開です。わが家のちょっと面倒な愛犬(前の回のこのNoteを読んで下さいね)の散歩コースです。ソメイヨシノ以外にもいろいろな桜が咲いています。お花見客も丁度良い感じで、お酒を飲んで騒いでいるグループは少ないので桜見物も快適です。外堀には桜の老木が多く、この数年でいくつも伐採されてちょっと残念です。

大きな鳥居の向こうに靖国神社

靖国神社の奥(内苑)は犬を連れて入れませんが、大きな鳥居から靖国神社を横断する道路の先までは犬の散歩もOKです。内苑の桜は本当に綺麗です。気象庁が開花宣言に使用する桜も内苑にあります。
 
65年生きてきて、靖国神社への僕の思いは微妙です。靖国神社のホームページには、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です」と記載されています。

僕が生まれた1959年は安保闘争の年です。その後はベトナム戦争と重なっています。ベトナム戦争は1955年(諸説あり)から1975年まで続き、世の中に左翼的な空気が漂っている昭和の時代でした。ですから僕の人生も靖国神社とは無縁でした。

その後、オックスフォード大学に留学し(1993年から1998年)、異国で5年も勉強すると、今度は自分の愛国心に火がつきました。司馬遼太郎の「坂上の雲」は留学中に辛いことがあると何度も読みふけった愛読書です。「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」と始まる小説で、明治維新からヨチヨチ歩きだった日本が大国ロシアとの大戦に勝利する(実はなんとか引き分け)までの物語です。

靖国神社で会いましょう

帰国後は外科の講演や漢方の講演の演者として全国を飛び回っていました。あるとき、鹿児島を尋ねて、知覧特攻平和会館を訪ねました。そこで特攻隊員達の書簡を見て涙しました。そこには家族に向けたいろいろな思いが綴られていました。そこには「靖国神社で会いましょう」とあちらこちらに記載がありました。
 
靖国神社への閣僚の参拝は、もうすぐ戦後80年を迎える今でも、諸外国から咎められます。今の僕には内政干渉にしか思えません。「靖国神社で会いましょう」と約束をして、若い人を戦地に送り、そして帰らぬ人にしてきました。知覧を訪問して、靖国神社に行ってみようと思いました。

私たちの日常は誰かの命のうえに

いまだに複雑な思いがあります。でも境内のさくらに向かって、今の日本のために命を落とした英霊に感謝しています。以前は、靖国神社のそばにある千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行けばいいと割り切っていましたが、やはり約束は守らないとダメだよねと思う自分がいます。
 
天皇陛下に靖国神社を参拝してもらいたいと思う自分もいます。「天皇陛下万歳、靖国神社で会いましょう」と念じて命を落としたのです。天皇陛下では外交的に支障が多大なら、上皇さまに参拝してもらいたいとも思います。

無関係ではいられない。私たちの未来

皆さん、頭の体操をしてください。そして戦争を自分事として考えてください。ロシアが西の隣国ウクライナに侵攻しました。東の隣国は日本です。北海道に侵攻することもゼロではありません。その時はクリミア時のようにロシアの北海道割譲を許しますか? いろいろなことを自分事として感じながら、いろいろな思いを巡らせながら、ちょっと面倒な愛犬と桜を見ながら、靖国神社のそばを散歩しています。そして先日は桜満開の外苑で「知覧の玉子丼」を家内とふたりで食べました。


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