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004 #私を構成する5つのマンガ

なるほど。5つ搾り出すとこういう具合にアタマの中身が露呈するというわけか……。壮観。

では、左から順に。


サイボーグクロちゃん

未熟、早熟、成熟、と。少年誌ボンボンで連載していたので、まず普通に読もうとしたら、至るところでギャグの幼稚さというのはたしかに目に付くのだろう。対してガンダムネタをはじめとした完全に大人向けのブラックユーモア、ここぞという時に魅せる、シリアスでヘヴィな展開。あれは間違いなく、想定される読者層よりはるかに高い年齢に向けられていたものだった。
空の彼方から届く、あるはずのない不可視の電波をたまたま捉えてしまったように。あの頃、クロちゃんたちの物語の向こう側から訴えかけてくるものを追いかけていた。
それは愛らしいぬいぐるみの皮をかぶった哀しきサイボーグ、クロちゃんそのもののあり方、その魅力、でもあったのかもしれない。

いま読んでも、あんなに笑えるだろうか。
ミーくんといっしょに泣けるんだろうか。
マタタビさんはとってもオトナに見えたけれど、そしてその実クロちゃんが一番オトナではあったのだけれど、今の私の眼にはいったいどんな風に映るだろうか……。

クロちゃんとナナちゃんにオトコとオンナの横顔を垣間見た、あの美しい最終回をいつかまた、読み返したい。


ライチ☆光クラブ

もとは伝説的な芝居だったのだとか。
嶋田久作。飴屋法水。ほの暗い小劇場の舞台、その危うい熱と高揚。
最初から、破滅の匂いしかなかった……と、記憶している。
どうにも興味がうわずって、いたずらに覗いた物語。
使い捨ての欲求のはずだった。

一人反芻するには、ありあまる熱量だった。

ためらいつつ、私は友人Mに貸してみた。
当時ももちろん友人と思っていたが、結果としていまなお、親友である。
秘密の共有は人と人をつなぐ。よくも悪くも。


ハチミツとクローバー

私からお話しすることはございません。というほど言わずと知れた名作。

当時、主要な登場人物たちより年下であった私は、世の多くの物語の主役を任され、背負って立つ、いわゆる高校生という生き物だった。
旅をするのも、世界を救うのも、恋愛至上主義でいられるのも、18までだというある種の達観と慢心と、諦念とを持ち、“もう高校生ではない”という意味においては20代も60代もさして違いはなかった。

しかし。はぐちゃんは、新一年生で、背も小さくて、コロボックルで、かわいかった。それはもう、その背景に花がこぼれるほどに。そうか。19を過ぎても、こんなに可愛くていいのか。物語は高校生のためだけじゃなく、その先へと地続きにつづいていくんだ。私はなぜだかそこに20代から先の展望を見出だしていたのだった。
ただ単に、それまで目にしていた少女漫画や少年漫画よりも、読者の年齢層の高い漫画をその時初めて手に取ったというだけのことでもあるが。
けれどもそれを手に取ったこと自体が、必ずしも子どもを対象としない漫画作品が世間に幅広く受け容れられ、愛されていく過程を、時代の空気として体験していたということを意味してもいるのではないだろうか。

大学を舞台に、これから何をして食べていくかという、まさに人生の岐路に立つ若者とそれを取り巻く大人たちを描き、恋愛や部活や冒険に彩られた高校生の青春よりもいっそう淡くて苦いもうひとつの青春の形を示してみせた。
美大というところがまたミソで、それぞれの創作への情熱と意欲、焦燥、ナリワイとしての折り合いのつけ方、才能の飼い慣らし方と世間でそれを生かしていく道の模索、才能のない者の身の処し方、そうした問題がより切実に、生き方そのものの問題として浮き彫りになっている。

そつなく社会に片足を突っ込んでいる(つもりで青臭い)真山だったり、指導者層がおじいちゃんだらけの陶芸の世界で、ものを作り売っていく道を選ぶあゆ、天性の才に恵まれ、一人では到底それで財を成すことなどできない無垢な芸術家はぐちゃん。そして同じく息をするようにありのままで才能に溢れている森田は外的な要因もあって、その能力を精力的に金銭へと交換することにもっとも成功している──。
そんな面々に囲まれて、抜きん出た才能も、これにこそ注ぎたいというほどの情熱も持たない竹本くんは、ともかく体ひとつで文字通りある日飛び出して行き、そこで実際の手触りを伴う、本当の出会いを果たす。宮大工の一行。椅子に座って窓の外を眺めているばかりでは絶対に見つからない答えも、世界に出ていけば自分の五感で掴むことができる。
自分の足で歩き、自分の眼で見る。
五人それぞれに困難な道を歩むが、竹本くんの苦悩とその到達点は、五人のなかで彼にしか成し得ない、彼らしい道行きだったし、私を含む多くの凡人──“ほかのことに比べたらそれが好きと思える”層──に、感銘を与え、自省を促してくれたことと思う。

創作すること、生きていくこと。
大人になったら、ただただ絵が好きなだけの女の子ではもういられない。いや、そうであることもできるが──そのままであるためには、なんらかの犠牲を伴う。たとえば、誰かの人生だとか。
恋愛は至上のイベントではなく、はぐちゃんは恋に生きなかった。芸術、自分の才能と生きていく。そのために、必要な相手を選んだ。
人生を捧げてもいいと、人に思われるような才能
王子様でもなく、クラスの人気者でもなく、新作のバッグやスラッとした見目の良い鼻でもなくて、私が欲しいと思っていたのは、何よりも羨ましく、焦がれたのは、そんな、人を惹きつけてやまない強烈な才能を持つことだった。

はぐちゃんは泣く。
お米と絵の具が買える生活ができればいい。
生きていく、とは。絵を描いて、食事をして眠って、ほかにどうすればいいのか、と。
それほどまでに湧いてやまない創作意欲、それだけを燃やして、生きていくことはどんなにか辛く、どんなにか幸福であることか。

はぐちゃんは右手に大ケガを負う。
ベートーベンがそうであったように、才能に愛された人は、それでも、才能の神への忠誠を貫き通し、立ち止まることなく、同じだけの愛を返しつづけるのだ。


アタゴオルは猫の森

この足の踏む、地面の向こう。
風の行く先のどこか、月光に照らされた雲の下に。
アタゴオルはある。
そのことを私の鼻や肌が、知っているような気がする。
夢に見る、私の中の深い場所、眩しくてよく見えない遠いとおい記憶の底に。背中合わせに、網膜の裏側に、アタゴオルは広がっている。
春の月、夏の夜風、秋の色彩、冬の深淵。

読むたびに、あと少しで思い出せそうになる。
パンツとどんな話をしたのか。
ヒデヨシに何をされたのか。
テンプラと見たはずの、空のことを。

私が何者であったのかを。


アジアンビート

水月博士の作品が、代表作『悪魔のオロロン』しかなかったようなので、そちらの画像を選択。
ここでお話ししたいのは、短編集『アジアンビート』である。

タイトルバック、見開き一面の雪の街ではじまり、「仲良くしよーよ」で終わる、終始寒くてつめたくてヒリヒリする一挿話が、好きだった。
引っ越しても蔵書を整理しても、この『アジアンビート』は家から家へ、20の私から30の私へ、いつでもいっしょに渡り歩いてきた。
時の運び方、視線のうつろい。つまりはコマ割りということになるのだろうか。繊細なテンポ感と余白が生み出す余情。
この文章を書くにあたって今回読み返した、唯一の作品でもあるのだが、その世界観に、私が文章を書く上でそこにもたせようとしている何かに近いものを感じて、少しだけ驚いた。
ソフトについてはともかく、文体というハード面においては、小説や、言葉だけで構築された言説から影響を受けてきているものとばかり思っていたから。
憧れた情緒やリズムの運び、持っていき方というのはかなりこの時期読んだ、このあたりの作品によるところが大きいのかもしれない。

雪の降る街。

それが『アジアンビート』の冒頭を飾る、とある寒い12月の物語の名である。


以上、私を構成する5つのマンガについて、書かせていただきました。
ほかにもあるはずなのですが、浮かんだ順に。読み返さずにつらつらと書けたのだから、やっぱりどこかしら私を“構成”していて、私の一部になっているのでしょう。
あるものは、形を変えて。
そう、解釈がちがっているところもあるかもしれません。記憶違いもあるかもしれない。
だから、“ご紹介を兼ねて”とは言えません。
あくまで一個人の思い込み100%ですので、あしからず。
気になるかたは読んでみていただきたいし、私も、どの作品も近頃とんと読み返していませんので、また読んでみたいナアと思います。
こんだけ好き勝手しゃべったからね。