その不安を「意味」にして。~朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』〜
この白さを、どこかで見たことがある。
読了後、すぐにそう感じた。
きれいにベッドメイキングされた後の、病室のシーツ。
冬の朝、窓を開けると積もっていた雪。
なんの跡もない、まっさらなキャンバス。
そのどれでもない、なんだっけ。この白さは。
しばらくして、ぴんと閃いた。
そうだ、陽明門だ。日光東照宮の、陽明門。
それも、修復が終わってすぐ、たった一度だけ観光に行ったときに見た、あの白さ。
純白という言葉ではとても足りないような、圧迫感と神聖さ、吸い込まれそうな、あの白さ。
朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』は、あの陽明門の白色だった。
本書では、幼馴染みであるふたりの男子大学生、堀北雄介と南水智也の関係を、四人の視点で描いている。
「死にがい」と「生きがい」、相反しているようでいて地続きなこのふたつについて、問いかけながら。
この本を読んでいるとき、終始、白銀に光る刃を向けられ続けているような気がした。
「さあ、君はどう思う?」と。
「君の生きがいは、なんだろう?」と。
「では死にがいは、なんだろう?」と。
登場人物の誰かに嫌悪感を抱けば、「なら、君には、そうはならない自信がある?」と。
ドキッとした。この台詞と同じことを、似た不快感を、私も感じたことがあった。
そして同時に、ほっとした。
私だけじゃないんだ、と。
これを、仲間意識と呼ぶのかもしれない。
そんなことを考えたとき、私は思った。
あの「白銀の刃」の正体は、「不安」なのだと。
この作品で描かれている、人類を「海族」と「山族」に分ける「海山伝説」という思想も。
「生きがい」や「生きる意味」を模索し、自滅し、葛藤する登場人物たちの姿も。
それらは全部、「不安」から生まれるのではないだろうか。
「意味」がないことは、「不安」だ。
ならば、「不安」を抱えたままだったとしても、その「不安」に「意味」を持たせればいい。
後付けだって構わない。だって、「意味」もなく生きていくには、あまりにも人生は長すぎる。
対立も、争いも、世界平和も。
信仰も、愛情も、憎悪も。
全てが「生きる意味」になる。
この作品の「白さ」は、「きれいごと」の白さだった。
でもそれは、絶対に手の届かない白さでもある。
「生きる意味なんてなくても、生きているだけですごい」なんて綺麗事だけでは、果てしなく長く思える人生を、渡ってはいけないからだ。
でも、そんなふうに、「きれいごと」だけでは生きられないからこそ、「きれいごと」は、息を呑むほど「綺麗」なのだと思う。あの陽明門の白さのように。
この物語は、「不安」と、それを捨てるためにもがき苦しむための物語だった。
先行きの見えないこの世界で、「絶対」のないこの命を使って、生きていくための。
私は、「生きがい」や「死にがい」に対して偉そうに語れるほど大人ではない。
でも、「死」に対して無邪気に恐怖を抱けるほど子供ではないとは思っている。少なくとも、正しく恐れる術は持ち合わせているはずだ。
だから、今はせめて、胸の奥に溜まっていく「不安」を抱きしめて、生きていたい。
そのひとつひとつを、これから少しずつ掬い上げて、対話して、「意味」を与えて、静かに光にしていきたい。
いつか、私の「不安」だった光と、誰かの「不安」だった光が柔らかく繋がり合って、ひとつの円になれるときを祈って。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。