表現者として
ここ最近について思うことは色々あって。
暑い中で一生懸命交通整理をするおじいちゃんを見かけたり。
公園で缶コーヒー片手に一人座って、静かにコンビニのおにぎりを頬張るサラリーマンの方を見かけたり。
商店街の中、お客さんの一人もいないお店の奥にポツリと座るおばぁちゃんを見かけたり。
流行とは少し離れた、幾分か褪せた景色たち。
そんな一つ一つの情景の中にふとノスタルジーを覚えつつも、時代の移り変わりを感じずにはいられない。色は少ないが情動を感じさせる景色から、多色高精細だが無機質な景色へ。
インターネットが発達し、SNSが主流になった。AIは着実に日々進化し、世の中は更に便利になり、世界はより繋がる。(注:それによってもたらされるシンギュラリティという現象については、今すぐにでも全人類がそれについて知り、考察する事が急務だと思っている。)実際、こんな文章も今では場所を選ばずどこでもこうやって発信出来るようになった。僕自身、10年前には全く想像できていなかった便利な世界に生きている。
一方その反面、SNSなどでは顔なき憎悪や嫉妬、欺瞞などが渦巻き、なんとも言えずグロテスクで、一歩間違えば危険な集合精神世界を構築してもいる。正直に言うと僕自身もたまに、SNSを全てやめようと真剣に思うことがあるくらいだ。良い面もあるのだが、潜在的な危険やモチベーションの低下を感じる瞬間が多い事がその原因なのかも知れない。
そんな一つ一つの思い、記憶の断片をつなぎ合わせて行く中で、ハッと気づかされる瞬間がある。
確かに便利にはなっているし、10年前よりはるかに早く多い情報伝達の中で、僕らはいきている。しかし、それが本当に「幸せ」なのか。
その「幸せ」とは、なんなのだろう。大事なものである事は分かっているけれど、実態は掴みづらく少し目を離しているとすぐに見失ってしまう。
結局、いつの時代も僕らが気づき、学ばなければいけない。
昔、観た映画の中の「手放して初めて、永遠になる」「本当に大事なものがわからなくなったら、この世を去る時に持っていけるものを思い浮かべなさい」という言葉にすごく感銘を受けた。まさしく真理だと思う。「今を生きる」という事。
自分は一生をかけて何が伝えたいのか。先述の見かけた人たち。そして自分。そしてそれ以外の人たち。そんな一人一人の「今を生きる」人が幸せをシェアし、良い影響をしあい、真理を理解出来るような世の中に少しでもする。明確にそう言う意図を持つ。その為の表現なのかなと。それは、ずっとやって来た音楽であっても、演技でもこういう文章でも、今は手段は何でも良いと思っている。30代も半ばになって思うのは、手段を選んでいるような時間は自分にはないという事。とにかく、伝える事ができれば。今の時代は多面性、多様性の時代であるし、ミュージシャンが音楽だけをやる事を、誰も求めていない時代だとも感じている。(それの善し悪しは別として)僕は10代での父との死別や仲間の突然の死などで、肉体の中で時間は有限である事をたくさん学んできた。
だからこそ歓喜し、苦しみ、融合し、離別し、共感し、狼狽してもなお表現するのだと思う。僕が人生で自ら選び進んで来た方向は、果たしてこれで正しかったのだろうか。きっとその答えは、この世を去る時に出るのだろう。今この時を積み上げたその先で。地位、名声、お金、権力、便利、高速、多様化を超えたその先で。今は、本当にいろいろな事が大変な時代だ。きっと多くの皆さんにとってもそうだと思う。
だからこそ今は毎秒に集中し、瞬間にワクワクしながら、日々の幸せを一つでも多く捕まえようと思う。先に話した見かけた人たち、そしてあなたが今ワクワクし、幸せでありますように。勿論言うだけなら簡単だ。そのためにこれからも能動的に表現しようと思う。と、そんな事を思いながら明日も表現に向かう。
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