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続 さきほどのこと -先生と私 -失われた時を求めて

さきほど記したことを昇華してみましょう

学生とは学び生きる者
生徒とは生の業に走る者
つまり生徒にたいする先生の務めは、学業のみならず生き方といった人生を包括し教えることにあります。

先生は道具でなく生きた人間です
生徒も生きた人間です
人間には愛情のもとに人情があります

教えることが定型業務であれば人間は不要なので、AIや教科書で独学すればよいのです。
よって必要以上のことを教えることはもちろん異常ですが、それは非難されるべきことでしょうか。


老人や親たち、先輩たちは私どもに色んなものを遺そうとします。悪意が善意か気まぐれか。その宝箱の意味は開けて見ねばわかりませんし、その歳になるとわかるものであったりします。

ところで人は、
筋トレをすることにより痛み、筋力を育みます。
勉強をすることにより頭を悩ませ、学力を育みます。
人と接することにより心を痛め、こころの力を育みます。

先生は手紙に文字以上のみえないものをこめて書いています。これを親心、愛情といいます。
やはり観察者は観察者でしかなく、その者たちのことはせめて感情を抜いて推理で補うしかありません。

追記
提題者の文面を改めて読むほどに、イマジネーションではなくインスピレーションを通して事実が開示されます。これを味をかみしめる行為、推敲と言い換えることができます。彼の者美しく、先生も美しく、私たち意見を交えてみる大人も美しい。ただそれだけのことです。

600字


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