赤塚不二夫と立川談志の現在

故.赤塚不二夫の告別式でタモリが「これでいいのだ」というセリフについて語っている。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

立川談志は自らが提唱した「人間の業の肯定」についてこう述べている。

「寄ってたかって『人間を一人前にする』という理由で教育され、社会に組み込まれるが、当然それを嫌がる奴も出てくる。曰ク、不良だ、親不孝だ、世間知らずだ、立川談志だ、とこうなる。
 それらを落語は見事に認めている。それどころか、常識とも非常識ともつかない、それ以前の人間の心の奥の、ドロドロした、まるでまとまらないモノまで、時には肯定している。それが談志のいう『落語』であり、『落語とは、人間の業の肯定である』ということであります。
 『なら、いいこと、立派なことをするのも業ですネ』と言われれば、『そうだろう』ではあるものの、そっちの業は、どっかで胡散臭い。」

また、
「でも、落語が捉えるのは〈業の肯定〉だけではないんです。人間が本来持っている〈イリュージョン〉というものに気がついたんです。つまりフロイトの謂う『エス』ですよね、言葉で説明できない、形をとらない、ワケのわからないものが人間の奥底にあって、これを表に出すと社会が成り立たないから、〈常識〉というフィクションを拵えてどうにか過ごしている。落語が人間を描くものである以上、そういう人間の不完全さまで踏み込んで演じるべきではないか、と思うようになった。ただ、不完全さを芸として出す、というのは実に難しいんですが......。」

この2人の思想が現代には圧倒的に不足していて、また圧倒的に必要としている。

「常識」というフィクションを信じ切ってしまって「業」を出す者には容赦しない。

自分を殺し、常識(そんなものは存在しないが・・)というキャラクターを演じる。

そして周りの同調圧力によって演じざる得ない空気が出来ている。

これが息苦しさの正体かもしれない。

人間は不完全な生き物である事を前向きに受け入れる。

この思想を具現化出来るシステム、環境を作って行きたい。







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