智恵と純粋経験
今、この世で言語化されていない未知の知恵というのは無限に広がる。
それを引きずり出してくる主体とはどこにあるのだろうか。
純粋な経験と言うものを介することにのみのいて、そういった智恵は知恵に変わり得るのだと思う。
でも、純粋経験自体が起こり得るのは赤ちゃんだけかとは思う。大人になるにつれて、頭だけでなく知覚すべてが過去の経験をもとに経験を測り始める。
それを一個一個捨てることで純粋経験に辿り着けるかと言われると疑問である。でも、純粋経験ではないと自覚することはできる。それは純粋経験に戻っている証拠だ。
だから、純粋経験を経験する主体の立ち位置から純粋経験をしていない自分を認識する。そうすると、自然と智恵が姿を現す。
そうやっているうちに存在意義も見えてくるのではないか。
そもそも存在に意義などあるのだろうか。存在しないことでしかない。
存在とはいかなるものなんだろう。
仮に、存在の意義が智恵を知恵とすることだとすると、ある程度納得はいく。愉しいから。しかし、なぜそれが愉しいのだろうか。
おそらく、それが愉しいことは善いことだ。そうプログラミングされているようなもの。でも、何故そうなっているのかが分からないとまるで意味がない。
知るプロセスを味わいたいだけのゲームなのかもしれない。
そのために、男女を用意したのだろうか。
なぞは深まるばかり。最近は思考を止めていたな。でも、思考していたのだろう。
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