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なめらかな社会とは?|鈴木健『なめらかな社会とその敵』

社会を分ける線をなめらかにしたい――著者である鈴木健は、子どもの頃から、社会に引かれた無数の線に違和を感じていたという。

たとえば、受験には合格/不合格者を分ける線があるが、そこで両者を隔てている1点の差とは何だろう。この微量の差異が、学校や企業、組織への所属を分ける定性的な違いをもたらしてしまう。国家を分かつ線というのも不思議なものだ。思春期に西ドイツに暮らした著者は、ベルリンの壁の崩壊以前に壁越えを試みて銃殺された人々の慰霊碑と、崩壊直後、壁の上で手をつなぎ飛び跳ねる人々とを、ともに目の当たりにしている。彼らの生と死を分かつた線とは何だったのか。

客観的にみれば根拠に乏しく、しかしこの社会では絶対的な意味をもつ線で内と外を分けることで、組織というものが形作られる。そうして生まれた組織は、やがて自己の保存に必要な資源を内に囲いはじめる。人だけでなく、資本も物資も情報もまた、そこに引かれた線を越えられなくなっていく。

なめらかではない社会。それは、社会のうちに人為的に引かれた線が絶対的な意味をもち、並大抵の努力では乗り越えられなくなった社会のことである。そんな社会をなめらかにすることが著者の使命であるが、この本の醍醐味は、社会に引かれた線を安易に否定するのではなく、むしろその必然性をしかと見極め、そうした線の生成するメカニズムの最深部にまでもぐり込んで、それを hack しようとする点にある。

社会を分ける線の存在は、人間が生命であることの業によると、著者は喝破する。あらゆる生命は細胞から成るが、細胞膜とは自らを世界から分かち、資源を内に囲い、異物を外に排除すべく引かれた、一つの境界線である。そんな細胞の寄り集まった細胞社会が、やがて多細胞生物としての個体性を帯びはじめると、そこに皮膚というあらたな境が生まれ、それを跨ぐものは免疫による検問を受けることとなる。多細胞生物である人間もまた、寄り集まって社会をつくり、国境という線を引き、国を建てるに至る。

細胞の「線を引く」という性向が、多細胞生物、人間、社会へと、次第にスケールを増しながら、綿々と受け継がれていく。生命としての来歴をもつ僕たちにとって、膜をつくること、すなわち線を引くことは、「生きることそのものと等しいある種の業なのである」。

だが、細胞膜は生命の最小単位ではあっても、生命現象そのものの根底ではない。僕たちの眼からみれば固定的に存在してみえる細胞膜の背後には、無数の化学反応の連鎖がまるで網の目のように広がっており、そこで生成分解される物質の代謝によって、膜はたえず再構築され続けている。複雑な反応のネットワークの中で、崩壊と生成のあいだを揺れ続けている、動的な平衡構造としての膜。生命という現象を根底で支えているのは、膜ではなく、網なのである。網という現象が活発である限り、そこに生じる膜が硬直することはない。

こうして、なめらかではない社会という言葉に、新たなニュアンスが付与される。それは、膜の背後に広がる網の存在が忘れさられ、膜が膜として硬化してしまった社会である。そうして強張った膜がひるがえって、網という現象を妨げてしまう社会のことである。

たとえば、医者が患者である教師を治療したとする。健康になった教師が、生徒への教えを再開する。そうして知恵を授かった生徒が、10年後に海外で会社を興し、世界中に新たな価値をもたらすかもしれない。治療の生みだす価値は、関係の網をつたい、時を越え、空間を越え、はるかに伝播していく。

しかし、それとは対照的に、対価としての貨幣が伝播する距離は限られている。治療のもたらした健康がその先どれほど価値を生んだとしても、医者が受けとるのはあくまで治療そのものへの報酬のみである。すると医者のほうでも、貨幣の伝わる半径に自らを最適化してしまいかねない。患者の健康を二の次に、患者を薬漬けにして金を稼ごうとする病院がかつてあったというが、これは関係の網の目をつたうはずだった価値が、貨幣の伝わる半径(=病院という膜)に遮られ、硬直化してしまった一例である。

貨幣のつたう距離の短さにも理由がある。教師の健康がいかなる因果の連鎖を辿り、どのような価値を生み落とすのか、ひとには見渡せない。あるいは、その治療が本当に彼を健やかにするのかさえも。だから僕たちは、その複雑な因縁の網を断ち切って、医師が教師を治療したという単純な因果に限り、貨幣を伝播させる。人の認識能力の限界が、貨幣の伝わる距離をひそかに規定しているのだ。ことは貨幣に限らず、世界を覆う関係の網の複雑さに惑わぬように、それを切断し、単純化するための線を、膜を、僕らは必要としてしまう。

ここにおいて、なめらかではない社会という言葉に、更なる意味が刻まれる。それは、世界の複雑さに目をつむり、それを単純なものとして生きている社会のことだ。責められることではない。有限の存在として限りある認識能力しか持ちえぬ僕たちが、それでもこの複雑な世界を割りきって生きていくための、やむを得ぬ工夫なのだから。

だが、もし何らかの技術によって、人間の認識能力を補完できるとしたら? なにも僕ら自身が因果の果てまで見通す必要はない。コンピュータやインターネット、制度や環境のうちに実装された情報技術が、関係の網をつたわる価値や貨幣など複雑な伝播を、僕らに代わって計算してくれるとしたら? その補完の程度に応じて僕たちは、「この複雑な世界を、複雑なままに生きること」ができるようになるだろう。こうして著者は、これから300年の未来に発明されるだろう技術までを駆使して、新たな貨幣システム(伝播投資貨幣)、投票システム(伝播委任投票)、法システム(伝播社会契約)、軍事システム(伝播軍事同盟)を設計してみせる。

本書の壮大な試みの背景に佇むのは、近代成立以降300年の間に進行した、人間観と自然観の変遷である。

近代の制度は合理的な個人として生きる人間的存在を前提に築かれてきたが、進化論によって人は動物の延長線上に、生態系の網の一結束点として存在するようになった。それゆえ「私たちは、まず生命を語り、その延長線上の存在として人間と社会制度について語らなければならない」のである。

また、300年前の科学は100年後に訪れる惑星の軌道を予測したが、現代の科学は舞い落ちる花びらの10秒後の位置も予想できずにいる。けれど、これは科学の退化を意味はしない。予測できる自然の単純さから、予想できない自然の複雑さに、科学が向き合いはじめた証しなのである。

社会思想家として、人間社会に違和を感じる心と、自然科学者として、自然に不思議を感じる心とが、著者においてなめらかに結びあい、ひとと社会と生命のあらたな関係を編み出そうとしている。

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