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世界を再魔術化する科学 |モリス・バーマン『デカルトからベイトソンヘ』

『デカルトからベイトソンへ——世界の再魔術化』の著者であるモリス・バーマンいわく、近代とは世界からしだいに魔法が解けていく時代であった。 

 世界が意味にあふれ、山川草木がみな悉く生命を宿し、人々を安らぎのなかに包み込んでいた時代はもはや過去となり、それ自体としては無意味な物質世界の中に諸個人は孤立して、いまでは憂鬱症が時代の精神となっている。世界が「脱魔術化」していく決定的な転換点をもたらしたとしてバーマンが糾弾するのが、ルネ・デカルトの主客二分の哲学ないし、それに基づくとされる近代科学であり、砂漠のように意味の干上がった世界にふたたび魔法を取りもどそうとバーマンが参照するのがグレゴリー・ベイトソンの思想である。これは非常に乱暴な要約だが、本書冒頭に寄せられた佐藤良明氏によるすぐれた紹介文が公開されているので、より詳しく知りたい方はそちらを参照してほしい。

 大学院で物理学者として研究している頃にこの本を読んで、非常にアンビバレントな気持ちに襲われたことを覚えている。脱魔術化に抗して、世界を再魔術化する新たな知のスタイルを求める著者の動機には深く共感しつつも、そこで科学を語る語り口は、当時科学者としてそれを内側から経験していた僕の身からすると違和感の残るものだった(ちなみに僕が物理に入門したのは、科学者になるためというよりも、科学者であるとはどのようなことか、科学者の目に映る風景をこの身で確認するためが大きかった)。

 一つは、世界の脱魔術化の責任を近代科学の一身に背負わせることはどこまで妥当かということ。もう一つは、科学はただ世界を脱魔術化させるだけのものなのか、むしろ再魔術化させるものでもあるのではないかということ。


 一つ目の違和感に関して、もともと「脱魔術化」という概念は、社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で用いられ、その後社会学などの諸分野に流布した概念だった。そして、これは意外に思われるかもしれないが、「脱魔術化」という言葉は「脱宗教化」とイコールではない。むしろウェーバーの文脈に沿えば、脱魔術化とは魂の救済をもとめて宗教を徹底的に合理化していく営みであり、それは宗教的信仰に深く根ざした概念である。その信仰の合理化がプロテスタンティズムにおいて頂点に達したところで資本主義の精神が生まれ(*1)、近代科学と結びつき、世界の脱魔術化が加速する。やがて産みの親である宗教心を世界から締め出していくことで脱宗教化が完成していくのだが、少なくともウェーバーは脱魔術化の源流をプロテスタンティズムの倫理に見て取っているのであり、それを近代科学に結びつけるバーマンの論述はひとつのチャレンジである。

 また、バーマンの脱魔術化という言葉の、世界が湛えていた生命性の喪失という側面について、そこにデカルトによる精神と物質の二元論ならびに近代科学に受け継がれた機械論的世界観が影響しているのは確かだと思うが、たとえば哲学者の木田元が『反哲学史』で述べるように、これはプラトンの哲学以降続く「なる自然からつくられる自然」という長大な哲学史のなかで捉えるべきだとも思える。

 述べ始めると切りがないが、哲学、宗教、経済、科学と、脱魔術化には無数の要因があり、その仔細をはなれて近代科学に責任を集中させることはかえって問題の実態解明から遠のく行為のように、少なくとも当時の僕には感じられた(もっとも、複雑に錯綜している歴史や現実の中から着目した脈絡を際立たせて描くことも書を執筆する一つの意味であり、バーマンが一人の科学史家として問題を自らの領域に引きつけて書いたこと、そこに掛けられた覚悟をいまでは理解しているつもりである)。


 二つ目の違和感は、科学はただ世界を脱魔術化させるだけでなく、むしろ科学によって世界が再魔術化されていく側面もあるのではないかというものだった。

 科学の種は、特定の自然現象に触れたとき湧きあがってくる不思議の情にある。その不思議に導かれて研究をすると、自分が事前に思い浮かべていたのとは異なる、自然の思いがけない表情に出くわして驚嘆する。さらに研究を続けると、それまで無関係だと思われていた複数の現象が、ひとつの法則を通じて互いに連関しているのだと分かることもある。自然の事物は離ればなれにあるのではなく、私の知らないところで結びあっているのだという、自然の一体性への信仰。

 自然に対して不思議を抱き、自然に驚かされ、自然の事物に結びつきを感じとる。こうした科学の心が、かならずしも世界を脱魔術化させるだけのものとは思えなかった。明治期の物理学者・寺田寅彦は「生命の物理的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見する事でなければならない」(春六題)と語ったが、科学の現場においても「もののいのち」に触れる瞬間が確かに存在しているよう思う。僕自身大学院時代に渦の物理を研究していて、渦のあるがままを数式に表現することなどできはしなかったが、だからこそそこから漏れ落ちるものに目が見開かされていったのか、あらためて川の流れや海辺に打ちよせる波を目にしたとき、細部にまでわたって世界が輝いてみえたことを、世界の表情が一変したことをよく覚えている。数式や論文からは零れ落ちるところに科学者のみる風景のほんとうがある、というのが科学を語る上での難しさだ。

 もちろん、こうして科学者の実感する科学の風景と、科学技術に覆い尽くされた現代社会に流布する科学的世界観との間には隔たりがあり、総体として、近代科学がやはり世界の脱魔術化を推し進めてきたことに異論はない。だけど、科学者時代に得た実感を種として、近代の歴史の中に実現されてきた科学——science as we know it——とは異なる科学を、歴史がひとつ違えば過去にあり得たかもしれず、これからの未来にあり得るかもしれない科学——science as it could be——を構想することはできないか。

 脱魔術化の責任を負わせて科学を捨て去るよりも、科学を内側から再編成してこれを再魔術化に役立てようというのが、僕の長年の夢であり人生の仕事なのである。

 そういう目で『デカルトからベイトソンへ』を読みかえすと、バーマンが希望の思想として語ってるベイトソンはもともと機械論的な思想に基づくサイバネティシャンだし、この本の新版に帯分を寄せた落合陽一さんもドミニク・チェンさんも、デジタルテクノロジーによる魔法の世紀を唱えたり、糠味噌の声を聴くためのロボット(ヌカボット)を開発したりと、技術と魔術を架橋するお二人だ。

 なんだなんだ、バーマンに鬱屈を感じていたのは、ひょっとすると僕の被害妄想だったかもしれない。山が笑う、風が囁く。自分の為すべき事にたんたんと取り組もう。

(*1)解説書に基づく拙い理解だが、遡ればユダヤ教にはじまる一神教は、アニミズムや呪術的信仰を魔術的なものとして退け、そのことによって神を一元化し、宗教を合理化してきた側面がある。ウェーバーによれば、こうして信仰を非合理的な魔術から解放していくプロセスはプロテスタンティズムのもとでついに頂点に達し、キリスト教の宗教的儀式でさえ、それは呪術的な行いであり魂の救済に資するものではないと破棄されるにいたった。また、神との直接的な結びつきを求めるプロテスタンティズムは、物のうちに神秘や呪力を感じとる物神化の精神を神と人のあいだにはさまる夾雑物として否定し、一切の被造物は宗教的に無意味な物体に過ぎないとみなされるにいたった。呪術的な力に頼ることなく、神との直接の結びつきだけを頼りに救いを求める人々は、より禁欲的に、より勤勉に労働に従事することとなり、そこでは蓄財の多さが信仰の深さと救いの確実性をしめす指標となる。こうしてプロテスタンティズムの倫理の内から資本主義の精神が産み落とされる。

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