小説「箱」

「箱」
 
 時間の概念というものが消失してしまったような場所だった。あまりにも静か過ぎるのだ。あたりの通りには車一台、人ひとり通らなかった。電柱の陰から猫が一匹、物珍しそうにこちらを見ていたが、僕が近寄ろうとするとすぐに逃げてしまった。人に馴れていないようだった。
 僕は彼女から貰った手紙の地図を頼りにこの眠りこけてしまったようなところまで来たのだった。彼女と会うのは実に二年ぶりといったところだった。大学を出て僕が町を出て行ってしまってから、彼女とは音信不通になっていたのだった。彼女とは高校の同級生であり、同じ大学の社会学部に入ってからはゼミまで一緒だった。社会のことについて詳しくなれたかどうかは分からないが、彼女のことについてなら幾分は詳しくなれたと思う。考えごとをするときにあごに手を添えるチャーミングな癖や、大学の食堂でどの定食をよく食べるのかといったことだ。僕は彼女と同じ友達グループに属していたわけでは無いのだが、遠巻きにそれとなく彼女のことを観察していたのだ。高校のクラスで一緒になったときから、その人目を惹く華やかな顔立ちと頭の良さで常に彼女はクラスの輪の中心にいた。しかし僕が彼女に惹かれたのは、その美しさや、利発さといった部分ではなく、彼女が時折見せる悲しそうな表情や、ふと物想いに沈んだときの影のある表情だった。彼女がみんなに振りまいている明るさや華やかさの裏で、人知れず深い苦しみを抱えているのではないかという想像を常に僕は持っていた。そしてそれが僕の単なる想像では無いということが分かったのは、ある日の放課後、僕が忘れ物か何かを取りに教室に戻ったとき、偶然彼女が泣いているのを見てしまったからであった。最初彼女は静かに俯いて泣いていた。僕が立っている教室の後ろの入り口からは彼女の顔は見えなかったが、肩が震えているので彼女が泣いているのだというのが分かった。やがて彼女は手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。彼女がそんな風に泣いているのを見るのはそれが初めてだった。彼女はどんな時でも努めて涙を見せまいとしているようだった。なるべく周りの雰囲気を壊さないように気を配って、精一杯の笑顔を振りまいているように僕には感じられたのだった。彼女がどのような理由で泣いていたのかは分からなかったが、僕は他人がそんなに激しく泣いているのに出会ったのはほとんど初めてに近かった。やがて彼女はなんとか泣き止むとハンカチで涙を拭い、前髪をサッと払って整えると掲示板に貼ってあるプリントを片付け始めた。彼女はクラス委員を担当していたので、それも彼女に与えられた仕事だったのだ。僕が何食わぬ顔で教室に入ると彼女は少し驚いた様子だったが、すぐにいつも周りに見せる様な笑顔を向けてくれた。
「忘れ物?」
 と彼女が聞いてきたので、僕は、まあねとか適当に返事を返してその場からなるべく早く立ち去ったように思う。
 彼女には付き合っている特定の誰かはいなかったように思う。もちろんサッカー部のキャプテンとか、そういったクラスでも強い発言力をもった連中と彼女が放課後一緒に歩いていたとか、誰それと付き合っているのではないかといったうわさはいくつかあった。そんなうわさが出るたびになんとなくソワソワと僕は聞き耳を立てていたのだが、彼女はいつも決まってそういったうわさを否定した。笑顔で「もう、誰がそんなうわさ流したのかしら。まったく。」と軽くあしらってしまった。彼女がどうして僕なんかでも入れるような大学に進んだのかは分からない。教師は東京の有名な大学を受験するように薦めていた様だったが、なんとなく彼女には地元に残りたいような雰囲気があった。あるいは家の都合であまり家族のもとを離れたくなかったのかも知れない。どれも全て僕の推測に過ぎないのだが。僕が高校の3年間で彼女と交わした会話は、教室に忘れ物を取りに帰ったあの日を含めても数回しか思い出せないのだが、大学に入ってからも似たようなものだった。同じ高校からその大学に入った生徒は数名しかいなかったから、最初のうちは情報交換のために何回か連絡も取ったし、大学の図書館の机で一緒に課題に取り組んだこともある。しかしお互いに大学に馴染んで来ると、所属する友人グループも別れ、それぞれに異なった大学生活を送ることになった。たまに大学のキャンパスですれ違うときに目配せをするといった程度だった。そんな彼女から手紙が来たので僕はいささか面食らってしまったわけだ。

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