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今日のかみさま

黄色い電車が水路の脇の線路の上をゆっくりと進んでいく。
昼過ぎの明るく暖かな車内は、人もまばらで、電車と同じ色をしたジュースの空き缶があっちへいき、こちらへころがり、カラ、カラランと軽い音をたてながら、賑やかに車内を動きまわっている。

かみさまは、日差しに温められたまるい背中をさらにまるくして、長いこと舟を漕いでいたのだが、何かが足に触れたので、はっと目を覚ました。かみさまの少し擦りきずのある、柔らかそうなローヒールの先に、黄色の空き缶があった。
まあ。飲み終わった缶を誰かがそのまま置いていったのね。しかたないわね。自分で口をつけたのをほったらかしていくなんて、自分の穿いていた靴下をそこらへんに脱ぎっぱなしにしとくようなものだわ。
かみさまは丸い背中をさらに低くしてその空き缶を拾おうとしたのだけれど、指が触れる刹那、その空き缶はさっとかみさまから離れた。あら、逃げた。
かみさまは動いている電車の中を、立ち上がって空き缶を追いかけるほど足腰に自信がない。
降りるときに拾えばいいわね。と諦め、空き缶の行く先を目で追った。するとそれはかみさまの前に座っている男子中学生の足元で止まった。

白いシャツに黒っぽいズボン。つむじのあたりの髪がはねている。まだ一年生か二年生といった小柄な少年は膝にのせたナイロン製の分厚いカバンの上に置いた参考書らしき本を熱心に読んでいる。その足元で、黄色の空き缶はゆらゆら、居心地よさそうにとどまっている。かみさまはその少年と足もとの缶を見ているうちに自分もいい気持になって、また舟を漕ぎだした。

電車が駅に到着し、がったん、とブレーキがかかってかみさまは目を覚ました。目を上げると、少年がいた席が空いている。黄色の空き缶も消えていた。
ドアに向かってくだんの少年が重そうなカバンを右手に持ち、左手には黄色の空き缶を手にして立っている。まもなくドアが開き、少年はホームに降りると、ちょっと頭を左右に動かし、自動販売機をみとめると、改札とは逆の方向に進んでいった。そこにあった自動販売機の脇についている缶の回収ボックスの丸い穴に、黄色の空き缶を入れた。缶の落ちた音は聞こえない。そして向きを変えると改札のある方へ歩き出す。少年は左手にカバンを持ちかえ、右のズボンのポケットから定期を出し改札機にタッチすると、分厚いカバンを両手で抱え改札を抜けていった。

かみさまはその少年の一連の動きを、ホームをすべり出す電車の中から見ていた。かみさまに見られていることも知らず、その少年がとった行動を誇らしく感じたかみさまは、今日一日、わたしはあの子のかみさまでいよう。と、心に決めた。それからかみさまはまた電車に揺られながら舟を漕ぎだした。

浅い眠りの中で、かみさまはあの少年のことを思っていた。そしてふと気づく。顔を上げるとさっきよりも乗客が増えている。かみさまの前にも会社の同僚といった背広姿のふたり連れが立っていた。

あのジュースの缶。もしかしたらあの子が飲んだ空き缶だったのかもしれないわ。ううん、でもそうは思えなかった。なぜかはわからないけど。いいのよ。もしあの子自身が飲んだものだとしたって、わたしは缶を捨てに行ったあの子の姿に気持ちが動いたのだもの。そうよ、わたしはあの子を思うあの子にとっての今日のかみさまね。そう思うとかみさまは少しほっとした。そうしてあの子も、わたしに幸せをくれた今日のかみさまだわ。

やがてかみさまの降りる駅に電車が着き、降りる人たちのいちばん後ろから、かみさまも電車を降りていった。

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