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2023.5.17.wed. それぞれの旅立ち。

7カ月振りのネコノス手帳。と思ったら、長いよ~。

5月に入りぱたぱたと忙しくなり始めた6日の夜。少し遅くなって家に帰るとエサ入れが空っぽになっていた。「ごめんね、くるみくん、お腹すいたね」と声をかけながら二階に上がっていっても姿を現さない。窓が少し開いているから外にいるのかなと思いベランダ(物干しとも言う)を見たがいない。押入れの奥や我が家のすき間をあちこち探してもみつからない。外に出てうちのまわりを探してみても姿はない。気配を消すことにかけては忍者並みだ。いないと思ったらいた、なんてことは日常茶飯事。そう思って戻ったがやはり姿はなかった。今朝、出かけるときにお互いいつもよりこってりと挨拶したのだが、それがお別れだったのか。

それから何日かは裏の戸を開けておいたが、その間、激しい雨の日が2、3日あった。もう戻らないということは私も本能的にわかってはいた。一緒にいればそうした感覚は身に着くものだ。タイミングいいときを狙ってくれたな、くるみくん。

実際、私は忙しさの中でくるみがどうしているのか、生きているのか死んでしまったのか、ふっと思うことはあっても、くよくよ考えずに済んだ。いるはずのものがいない違和感。それは哀しみというより喪失感だ。だって死んだわけじゃないもの。わたしの前から消えただけ。死に場所を求めて去ったにしても。

12歳では猫の寿命としては短いほうだ。もう5、6年は生きられるのではないかと思うのだが、猫の最期を看取るというのも大変なことだと思う。それは死にそうだったくるみを引き取ったときから覚悟はしてきた。一日でも長く生かしたい、手術をしてでも治したいという飼い主と違い、私は、これからはもう病院へは連れて行かないと決めていた。ただ、実際、そうなったとき、果たしてその覚悟を貫けるかといったら絶対と言い切れるだろうか。やっぱり悩むだろうな。そうしたことを考えると、突然くるみが消えたことはその悩みも消えたことになる。死期を察して去ったのだとしたら、なんて飼い主思いの猫じゃないか。喪失感で力が抜けそうになってもありがたいと感謝することでバランスをとっていた。

くるみが戻らないことは早くに受け容れたものの、消えたことがどうにも落ち着かない。それで私は自ら描いた『サランドバディ』の風景の中にくるみは飛んでいったのではないかと思うことにした。そうすればまた向こうの世界で会うことができるかもしれない。くるみは猫ではあったが、実体のないまさにエアーだったのではないかと、都合のいいようにまとめてみたのだ。この際、私が納得できればいいので。ちょっとひとには言えないけど。

くるみのエサと水の入れ物を片づけ、トイレも片づけ、爪とぎ用のシートをはずし、毛だらけの床を掃除して、少しずつくるみの影が消えていったある朝、幸せな気持ちで目が覚めた。なんだろうこの幸福感は。そして気づいた。もう私は自由なんだということ。縛られている気は無くても、家を空けることは出来なくなっていたし、思いついたときにふらっと一人旅をすることもなくなっていた。それがまた再開できる。自由に生きられる! その幸福感だった。ありがとうくるみくん。

そんな新たな心境になった15日の夜のこと。近所の銭湯帰りになんと!くるみと遭遇してしまったのだ。痩せてもいないし元気そうだ。塀の上で、しまった見つかった!という目をして、気配を消そうとしているのがわかる。声をかけても無視。手を出そうとするとシャーッと威嚇する。低い唸り声まで響かせて私を拒絶する。こちらだって複雑な気分だわ。自由になったと思ったら目の前に不自由のもとがいるんだもの。まあ、自由は置いといて、ひとまず連れて帰るしかないなと、いったんうちに帰り、ケガをしないように手袋をはめ、エサで釣ろうとカリカリを手に現場へ戻った。小雨降る中格闘すること20分あまり。ところが彼女には仲間がいた。突然小振りのキジトラが現れ、2匹で走り去っていったのだ。

猫には猫の生き方があって、人には人の生き方がある。あのキジトラは時々見かけた奴かもしれない。いつの間にかコンタクトとっていたのか。結局、くるみは元の野良に戻ったわけだ。バイバイくるみくん。がんばって生き抜けよ。私もがんばるから。

12年前の10月下旬、独身生活に戻り半年くらい経った頃だった。瀕死の捨て猫をひょんなことから育てることになり、くるみと名づけてそれから一緒に暮らしてきたけれど野良根性はなくならず、家猫のかわいらしさはあまり感じられない猫だった。誰か訪ねてきても隠れているから、皆はエアーキャットと呼んでいた。妄想で私が作り出した猫なんじゃないの? というように。

考えてみると、その頃私は表向きはともかく、人間不信というか男性不振に陥っていた。神さまかご先祖かわからんがそういう大きい力が働いて、くるみを使者として私のもとへ寄越したのではないか。アイツ足かせくらいはあったほうがいいかもしんないぞって。そして12年、干支が一回りして、もう大丈夫そうだから、というので、くるみは使命を果たし消えた。ところがそれだと私の気持ちが中途半端なままになってしまうので、とりあえずくるみが生きてることを見せて、あとはどっちも自由に生きろや、ってそういうことなんじゃないかなあ、なんて思うわけです。神さま、もしくはご先祖さまありがとう。

くるみがいない暮しにはまだ慣れないけど、それもそのうちあたりまえになっていくんだろうな。自由の身になって、やりたいことはやっぱり一人旅。各地に会いたい人たちがいるので、スケッチブック片手に青春18きっぷで訪ねて行こうかな、なんてことを考えています。旅の計画を練るのも楽しいし、でもその前に我が山小屋をもう少し片づけて、物も少し減らして、身も心も軽くして、それから考えていこうかと。そのときは皆さんよろしくお願いします。

で、くるみもいなくなったので、ネコノス手帳はこれにておしまい。また何か新しいこと考えます。

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