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相手が誰なのか、自分が誰なのかがわかる【神の使者/奇跡のコース/奇跡講座2015.05.28勉強会より】

https://youtu.be/3XFm0cVMw2g
私が見ているとき、兄弟をこれと思っている。このデータ。
防壁とか、コースで言うちりの壁とか、障壁っていうのは
私達の言い方では、データ。自我の思考。のことなんですよ。

このデータを見て、「言うこと聞いてくれないなぁ」とか
ここを兄弟と思って、これが兄弟と思って信じて疑わない。
苦しむ。そこで苦しんで葛藤するわけですね。
で、赦すわけですね。苦しいから赦す。
赦して、聖霊に取り消し依頼。

すると、「本当に苦しいなあ、どんだけよ」っていう風にやっていきながらも 赦していくと、この障壁が、取り消されていく。本当に消えていくんですね。
消えて無くなっちゃうんですよ。
すると、自分が「あんたさぁ」って言ってた相手が、 これでした(キリスト)っていうことが分かっちゃうんですね
「あっ!」って分かっちゃうんですね。

そうすると、兄弟は、ああやってくれてる、こうやってくれてる という、「ちょっとなにやってんのよ!」って思っていたのは、
この障壁のところで自分はジャッジして判断していた。 この障壁のデータの意味づけを信じて、それと同一化することによって相手を見ていた。
けれどもこれ(データ)は、無なんだと。
個性があるように見える兄弟も、無なんですね
データは実は、無なので、無いものを見て、「こうだ、こうだ」と思っていた。
で、赦していったら「あっ、なんだ、あなたは神であり、キリストだったんですね」って
ここが不変なんですね。絶対に変わらない。 不変なので、神も、キリストも、天国もずーっと臨在してくれていた。
「なんだー、よかった」ってなる。「ありがとう」ってなる。

自分が、そうして赦して救われていくのに
「あ、お父さんもキリストだったじゃん。神だったじゃん」て救われていくと
これ(ちりの向こう)が解るので、肉体の彼らをイメージしても
「ありがとう」って恩義しか感じなくなってくる。
こういう風に逆転していく。自分の見方が。
わかります?

自分のが視覚が変わっていく。見方が変わっていく。
今までの視覚は肉眼だった。 J の言い方だと、今まで肉眼だったのが、視覚が心眼、心の目になっていく。
キリストのビジョン。テキストにもキリストのビジョンって書いてありますね。
知覚が変わる。

心の中が、自我から聖霊に段々変わっていくので 実は、この目で見ていると思っていたけど、この目なんかでは見ていなくて
自我を選択していれば、肉眼。 聖霊を選択していれば、キリストの心眼。
聖霊のキリストの心眼から見たら、相手が誰かが解る。 本当は相手がキリストでした。
本当は相手が神でしたっていうのが分かってしまう。

「そうかあ」ってキリストのビジョンで分かった状態で、肉体の相手を見ても
「ありがとう。ここに居続けてくれたんだねー」って。
データはいろいろ変化するけれども、あなたは、本当はこのデータがあなたではなく ここ(キリスト)なんだ。
あなたも、本当は、データがあなたでは、なくここなんだ。
ずっと変わらないでいてくれてありがとう、となる。

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