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失敗を恐れず本当の責任をとる2022.02.01昼/Masako


マイティーコンパニオンのさとみさんが文字起こししてくれました🙏
※文字だけで理解できるようにするため大橋が多少加筆したり言い回しを変えて文章化しています。



2022.02.01昼/Masako
1:03:13〜

のり子:

失敗しないことが大事なわけじゃないんですよ。大失敗があってもね、、笑
これ、ここ何年も皆んなに言ってるんだけど..

失敗していいんですね 笑


自我はそれを望んでないですよね?
失敗しないことによってイイ感じの私 っていう仮面を着けられれば、分離感をキープできるから。

コース的な歩みを実践しながら【自分の失敗】を引き金に
『自分が、自分をいかに裁いているか?』
っていうのを(自分に)バラされたくないんです、自我は。

自分の失敗】を引き金に信念が形勢逆転され
『自分の思い込みにすぎなかった』っていうことが聖霊によって証明されてしまう。

自我は、私たちの心の一部は『失敗したくない』ってすごく思ってる。


失敗する以前に、自分が罪深いって思ってるからです。
けどもし、自分の中に罪がない、完全に何もない、無垢さしかないとしたら?

例えば、水が入ったコップに手がぶつかってしまって
テーブルにバーって水があふれて、ワーー!となった時

本当はその状況は
ただ、コップの水がテーブルにワーーって広がっただけですね。
(その状況は何の意味もない中立な状態)

でも、私は罪深い、私はだめだ(という信念を抱えもったまま)
いかに私がここにいる事が価値がないか、いかに私が全体の為にならないか(を証明しようとしながら)

『あーダメダメダメ!』って思ってる心の状態の中で
コップの水がテーブルに広がったならば

あーまたやっちゃった!
あーまたやっちゃった!
チューニングしてないから!
(という判断、自分裁きの知覚が起きる)

でも、起きてることは実際.. 中立なんですね。


(コップが倒れてテーブルを水びたしにしたことが問題なのではなくて)
罪の実在性、罪悪感の実在性について
『本当にそれがリアルなんだ!』って心が信じ込んでることが問題なんです。

(失敗したような状況を通して)
その信念が訂正されるっていうことを、聖霊は目的にしてるんですよね。

罪悪感、罪を信じる信念が浮き上がって
なおかつ、聖霊によって訂正されるこのカリキュラム、
このプロセスを通して聖霊は私たちに教えて学ばせようとしてるわけですよね。

あーそれはなかったんだ、罪などなかったんだ、とね。

だから、コップに手がぶつかって間違ってコップが「パカ!」って倒れて
テーブルの上が水びたしになっちゃう.. っていう状況のすべてを引き金に

自分が自分の中でいかに、自分を裁いているのかを発見して
これ(自分の罪の証明)について、正しい、正しいって思ってきたのを

今度は
これ(自分の罪の証明)が間違っていれば自分は得をするんだ、聖霊による訂正を求めたい、聖霊によって訂正を求めたいってところに戻っていく。

その時、(たいがい私たちは)苦痛を感じてますよ。
お願いしますって祈るときに、、

だって、信じてるから。
コップが「パタ!」って倒れて水がバーーーっとなった時に
苦痛を感じてます。

倒れる前から自分は罪深いと思っているから、苦痛を伴っています。
これを感じたくないからコップを倒さないように、失敗しないようにしてきた。

その痛みに触れたくないから、それ(失敗を回避すること)をプライオリティにしてた。

でも失敗みたいなことが起きる、それを引き金に
いかに自分が今まで抑圧してきた、見ない事にしてきた、隠してきたものがあったかって気がつく事ができて、それを抹殺するのではなく
感じることを受け入れて、許可しているからこそ

これを感じることになった原因のレベル

【自分は罪深い】
【世界が現れる以前に、最初に自分に罪がある】
【罪がある自分は邪悪だ】
【自分は駄目だ価値がない】
【自分の存在こそがその全ての苦しみの根源なんだ】
【私さえいなければ】

… っていうのが、世界が現れる以前から、ずーーーっとあった。
っていうことが発見され

これ、手に負えない
手に負えないので、これがもしも間違っていたら
(リアルじゃなくて自分の妄想なのだったら)
ありがたいです。

どうか、あなた(聖霊)の言うとおりに、これが訂正される事を望みますって、それはなかったって教えてほしいです。

って、ここまで触れていって聖霊からの訂正を受け入れる。

これが、本当の責任です。





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