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広大なる静寂の地点に留まれ

人間レベル、肉体・知覚のレベルでは赦しは起きない。水平レベルでは無理で、垂直に真上に突き抜けないと全然無理。

「それは起こらなかった」
「起きたと思っていた世界は、起きたと思った時点ですでに終わっていた」という、その認識の場所でないと赦しは起きないな、不可能だな、という強い感覚が続いてる。

真の赦しが起こる地点に留まるように言われている感覚が続いているのだけど、もしそこにいるとあれこれ語れないし、おしゃべりできない。

この心の地点(始まりと終わりの地点)は、広大なる静寂。

そこに在りながら、この世界でどう生きるのだろうか。在ることと、言動することとの間に(自分は慣れていないので)大きな隔たりがあって困惑してる感じ。

今まで自我に力を与えてきた心はこれを恐れている。ここにずっと留まり続けたいなんて思っていない。ゆえに身体に投影するしかないのだろう。
頭やあちこちが痛むのだ。

投影する理由は、これを避けるためでしかなかったのだと思う。


起きてなかった・すでに終わってたところに居続けることは、イエスなのか、五井先生なのか、聖霊なのかわからないけど、もうずっと言われてきたことだと思う。ずっとずっと言われてきたこと。

これを訓練するための、終わってんじゃんダウンロードがあったのだろうな。

世界という仮想シュミレーションボックスから離れて、その電力プラグを引き抜いて、聖霊と一緒にその箱の残像を眺めている、その場所に留まり続け、夢を夢と認識して、偽りを偽りと認識して、力がないものとして見極め
実在にフォーカスを向けるために時間と空間が活用されてきたし

これからも、そのために時間と空間を使うのだろうな。

これへの抵抗が燃え尽きますように。




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