見出し画像

⑨Jesus: A Gospel of Love (2024年2月25日 ミュージックギャザリングとキリストの瞳)

最終的に、そのミュージックギャザリングはコンサートというよりもデイヴィッドのトークセッションのようになった。

メインは楽曲だと思っていたけど、結局のところ彼は3曲くらいしか歌わなかった。誰かがそのように計画したわけじゃなくて、完全にそういう流れだったのだ。

デイヴィッドが自然発生的に彼のこの歩みのプロセスについて具体的に語り、時々それに対してミュージシャンとして招かれたアレックスが自分の経験を話したり質問しているように聞こえた。(私たちは会場の外の芝生で座って聞いていてハッキリ聞こえなかったので半分以上英語を聞き取れなかった)

私が座ることにした場所からはデイヴィッドも見えないし、アレックスも見えないし、しかも最初は日陰だったのだけど時間経過と共に陽がさしてきた。

周りの人たちは移動していったけど、自分がデイヴィッドを見れる場所に行くというモチベーションがどこから来るのかについて慎重でありたかった。

ゲットしたいとかデイヴィッドやアレックスが見えるのは良いことで得で、得られるものがあり(ほんとうか?)見えないのは損で、もったいないこと。という欠乏を信じる信念や解釈があるのをずっと眺めていた。

別に、よく見える場所に移動すること自体は問題ないのだけど、私が望むのは環境の改善そのものではなくて、心が正気に戻って一切の序列の差が信じられていない心の状態に戻ることなのだ。

そのためにここにいるので、聖霊の声が聞こえても聞こえなくても耳を澄まし続けてゴーサインがあったら移動しようと思っていた。

すると、「ステイ」と言われ続けている感じがしたので、良いとか悪いとか、正解不正解とかの判断を停止して

「私にはわかりません、何をどう判断すればいいかわかりません、あなたが決めてください」と、ずーっと祈り続ける時間にしようと決断したのだ。

もはやミュージックギャザリングと私の関係によってこの空間にはいないし、その関係においてこの2時間半という時間を費やすのでもない。

すべては私と神との関係なのだ。

会場に早めに到着してプール周りとガーデンの掃除をしていたその時間も、このミュージックギャザリングの時間も、デイヴィッドが何を話しているかがわかってもわからなくても

私が「知ってる、わかってると思っていること」「自分で決めた解釈」を認識しては、それが光の中へと棄てられていくためのこの時間なのだ。

そう決断して過ごしていった。

すると、状況関係なく、デイヴィッドが見えても見えなくても、声がハッキリ聞こえても聞こえなくても、何が話されているか理解できなくても、そういう条件や状況は

『今私が知覚すること、感じることと、真のありのままの状態には、何ら影響していない』
という感覚がやってきた。

✨幸せがやってきて、心がぐわーっと開かれていったのを感じた。これが聖霊の想いなのだ。

これにもう一度チューニングするためのミュージックギャザリングだったのだな。

ギャザリングが終わって、ベニートの写真を何枚も撮って、一緒に車に乗って帰る兄弟たちが集合するまでしばし待っていると、グレッグ・ドナーがそばにやってきて、最近私が投稿しているfacebookの記事について語りかけてくれて、その時の彼の目が透明で輝いていて、会話関係なく目の奥を見つめ合い、この透明な光の奥にいるのが私たちで、これがキリストなんだと感じた。

そして、ラバーンとも話したのだけど、彼女は私が英語の聞き取り能力が高いと思い込んでいるのか、ネイティブスピードで長文レベルの会話をガンガン続けるのだけど、なぜか彼女の言ってることがほとんどわかる感じがしてコミュニケーションできたのだった。笑

彼女は今、主にやっているファンクションが出版関係とAI関係なんだけど、数年前はすごくAIに対して恐れやジャッジがあったものの、そのジャッジを手放して癒しを受け入れるために兄弟と共にファンクションを継続してきて、心も癒されて、結果的に世界中の兄弟たちが活用できるレベルまでAIアプリが延長されてきていることをとても幸せに感じているらしい。

その時ラバーンが言ってたのだけど、この「イエス・愛の福音」という書籍はフランセスのインスピレーションから始まったのよ。と、はじめて聞いて私はとても嬉しかったのだった。

心がとても温かくなって開かれて、なんとも言えない素晴らしい日になったのだ。

プールの周りのガーデンを掃除することが核心的な目的じゃない。ミュージックギャザリングのためにここにいるわけじゃない。

これらすべては、私が完全に間違えてきて見誤ってきたことすべてについて、根本的に訂正されることを受け入れるためのプールの周りのガーデン掃除、ミュージックギャザリングという形態を通した一分一秒なのだ。

そしてそれは、神と私の関係について私が訂正を受け入れるのをキリストに待望されている瞬間なのだ。

それを今と呼ぶ。



(仮邦題)「イエス・愛の福音」 デイヴィッド・ホフマイスター
"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister

✨以下、本書の「2. Jesus, What Is My Relationship to You? / イエス、私とあなたの関係とは何でしょう?」より、いくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。

彼は公衆の面前で使命を始めると「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」などと言い始めたのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」 とは、人間の発する言葉ではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である。」と宣言する人など、どこにもいません。それは聖霊の声です。

最終的には、自分に対する神の意志は完全なる幸せだと理解することになります。知覚の観点から言えば、聖霊は常に幸福の選択者であり、私を永遠の幸福へと導く決断です。

それが道であり、真理であり、命なのです。
これが 脱出口です。

"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister - 2. Jesus, What Is My Relationship to You?(仮日本語翻訳)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?