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【12】Jesus: A Gospel of Love(2024年3月某日 🎬映画The Proposal)

この日の夜はマルセラのインスピレーションで映画を観ることになった。
今のみんなにとって観るとよい映画だと思うのよ、と言っていた。
今まで観たことなかった映画だし自分では選ばないタイプの映画。
終始コメディー調の展開なので甘くみていたのだけど、最終的に思いのほかガツンとやられたのだった。

正面から愛を受け入れること、愛を与えること

そこから逃げない。防衛をやめる。マスクを外す。正直になる。心を開く。
などがテーマだったように感じた。「上辺レベルの愛じゃなくて、正真正銘の本物の愛を与え受け取るのは本当に怖い」と私の奥は怯えている。
深いレベルでは「遅かれ早かれその愛は終わり、拒絶され見離される」と自動的に信じている。

その奥の奥の奥では
「最後には見離され見捨てられ拒絶されることになると知っています。
絶対にそうなるのは確定なのでその結末知ってる。知ってる知ってる」と強く強く信じていて与えないこと、受け入れないことをすでに決断している。

それがこの全人生に投影されてきたわけで、非常に心当たりがある。
現在進行形の人間関係でもこの信念をベースにパターンが維持されてきた。
特に一生ものの人間関係ではこのパターンを認識して垂直に信念を超えていくことになっているだろう。

この課題に本腰で取り組むために、より一層心を掘り下げているメキシコ滞在なのだろう。

映画を見終えて、エクスプレッションの機会があり、みんなは何やら盛り上がって話していたのだけど、私はそれどころじゃなかった。
私が手を挙げる前にすでに涙がひたひたと流れているのをマルセラは気がついていて、エクスプレッションを促してくれた。

「どうやってこの心を開けるのだろう?」というくらい恐ろしいと思っている。愛して愛されることを受け入れた途端に、必ず奈落の底に落とされると思い込んでいるのだ。原初の罪悪感と欠如感を信じているところで縮こまっている心の一部があらわになるままに出させるしかないので、不信も恐れもジャッジせずallowしてあげたいと話した。
そして、話す前も話している間も、ライラのことを思い出していた。

https://youtu.be/cfoDjaVrElA


カースティン曰く、ライラはもともとすごく愛を恐れていて兄弟と真に繋がって愛し合うことを恐れていたのだそうだ。そういう原初の罪悪感が浮かび上がって超えていくことになっている時期に直面してそれを超えていった兄弟姉妹を思うと何かとても励ましを感じる。

そして、この大きな課題を再認識して眠りにつき、翌朝起きた瞬間インスピレーションとともに理解がやってきた。

「ああ、この恐れの原因はこれだった」
(頭で考えた理解とか、探った結果出てきた答えではない)
この恐れ(必ず最終的に奈落の底に落とされる)の、そのまた奥の奥の奥には【秘密の真実】があると思っていて信じている。

私が見離されるのは筋が通っている。
理にかなっていると思っている。
なぜなら、私が最初に神を拒絶して、神を見離して、見捨てたのだから
神が私を拒絶し、見離し、見捨てるのは当然だ。

と考え、強く信じているのは「私」なのだ。このことについて、神や聖霊に尋ねる気などないのだ。
「そんなの恐ろしい。だから隠し続けて思い出さなかったふりをするのが得策だ」と信じているのだ。
これが自我の仕掛けよね。。

それで、映画を観た翌朝のミーティングでまた涙が流れてしまっていて、これをエクスプレッションした。「こういう風に頑なに信じているけど、でも私は本当にこれがcorrection(訂正)されることを意志する。と話した。

例え、一生かかるとしても二生かかるとしても、これを望み続けたい。

この様な信念が浮き上がっていって訂正を求めていくプロセス中に、以下の章を翻訳しているのは必然だと思う。いつもながら完璧な手配で面倒見られている。


(仮邦題)「イエス・愛の福音」 デイヴィッド・ホフマイスター
"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister


✨以下、本書の「3. Speak on the Parable of the Prodigal Son / 放蕩息子のたとえについて語る」より、いくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。

3. 放蕩息子のたとえについて語る

イエスは啓示者です。イエスは神が全的な愛であることを明らかにしています。神はあなたのことをとても愛しており、あなたのことを決して諦めませんでした。あなたが眠りに落ちて、神に背を向けたと思った時でも、神は決してあなたから離れませんでした。

イエスが愛してやまない放蕩息子のたとえ話全体がそれを物語っており、イエスはそのことを繰り返し教えています。たとえ財産を使い果たしたとしても、光を覆い尽くしたとしても、光に戻ることは歓迎されます。
ペナルティはありません。その通りです、因果関係などありません。
大きな愛だ。

「放蕩息子」のたとえ (ルカによる福音書 15:11-32)
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister - 3. Speak on the Parable of the Prodigal Son(仮日本語翻訳)

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