思い出の味

店内は奥に細長く、両サイドの棚には茶葉の入ったガラス製の丸い透明な筒がズラリと並んでいる。茶の名前と価格を横目で見ながら10歩ほど進むとカウンターがあり、試飲スペースになっていた。

同行していた男に促されて席に腰をおろすと、彼はカウンターの女性に何やら中国語で話しかけた。すると彼女は後ろのケースから茶葉の入った金色の袋を恭しく取り出し、おもむろにそのお茶を淹れはじめた。袋には赤い筆文字で大きく「観音王」と書かれている。

小ぶりな急須に茶葉を入れお湯で蒸らし、あらかじめ温められた湯呑みに最後の一滴まで大切に注いでいく。高度に洗練された所作というものは見るだけでも楽しい。黄金に輝くそのお茶に鼻を近づけると、実に爽やかな香りがする。口をつけるとその香りは口から鼻にかけて広がり、まるで新緑の山にいるような心地よさを覚えた。さすが鉄観音茶の最高峰。すっかり満足していると隣の男も嬉しそうにこちらを見ている。

彼とはこの店に入る30分ほど前に出会った。上海の街を歩いていると突然話しかけられた。はじめは警戒したがやがて打ち解けた。貿易関係の仕事をしていて、訪日経験が豊富。日本のことが好きだ、というのが気に入った。身振り手振りと片言の英語でやり取りする。こういう触れ合いが嬉しかったりする。

政治的な話題を避け、秋葉原で炊飯ジャーが中国人に大人気、という聞きかじったニュースの事を話すと、私も買ったよ、あれはイイねと笑って言った。お前はお土産に何を買うつもりなのかと聞かれ、そうだなぁパンダかな、と答えると彼はニコリともせず真面目な顔でこちらを見てくるから戸惑った。気を取り直して、やっぱり中国茶かな、と答えると、彼は中国茶について色々な事を教えてくれた。鉄観音茶が一番人気であること。その中でもランクがあって「観音王」が最高級であるということ。そして値段の相場も教えてくれた。

そんな話をしながら、この店の前を通りがかった時に「試飲ができるからしていこうか」と、立ち寄ってくれた。一人ではなかなか入れなさそうなお店だ。彼と出会わなかったらこのお茶を味わう事もできなかった。偶然の出会いとそこで触れ合う人情が旅の醍醐味なのだと実感した。

50グラム180元。4,000円くらいか、と頭のなかで計算する。安くはないが、それほど高くもない。この出会いに感謝しつつ茶葉を購入し、店を後にした。

もう夜も遅い時間だったので、彼にお礼を言って別れ宿泊しているホテルに戻った。「観音王」の事を調べてみようとネット検索すると、色々な情報を知ることが出来た。値段は日本で買っても同じくらいの金額だったが、本場で試飲ができて確かなものを購入できたのだから満足だった。

そしていくつかのページを確認していると、その中に「彼」の写真が載ったブログ記事があった。それを書いた人も私と同じようなルートをたどっていた。記事のタイトルは「上海のお茶詐欺」となっていた。どうやら彼は観光客をお店に連れて行くプロだったようだ。私はお人好しにも、そのブログを読むまでまったく気づきもしなかった。

帰国後しばらくして飲んだ「観音王」はあの時ほど美味しくは感じなかった。


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