『徳川実紀』寛永十一年二月十日の項にて

珍しく、というわけでもないのでしょうか。

日本近世政治史の基本史料たる『徳川実紀』の記事を書こうとしております。

別に論文を書こうとか、そのためのメモ代わりにしようとかそういうことを考えているわけではないのですが、せっかくなので記述しておこう。

そんな気持ちで今回記事を書き進めております。


はてさて、まず『徳川実紀』とはなんぞや、という話になります。言ってしまえば江戸幕府の歴史書ですね。歴代将軍の記録を編年体で記述しているものになります。

あまり長々とこの史料の性質について語っていると、書いている私のスタミナが切れてしまいますのでそこは他に譲るとしますが、基本的に押さえておきたいのは江戸時代後期に編纂された史料であるということです。

つまるところ、江戸時代後期の性質が表れている史料ということになります。


さて、そんなこの『徳川実紀』にて私が気にしているのは「大猷院殿御実紀」、寛永十一年二月十日の項です。私がこの『徳川実紀』にあたっているのが、国立国会図書館デジタルコレクションのものでして、明治年間に経済雑誌社というところが刊行した『国史大系』なる叢書収録のもののようです。本当は吉川弘文館が出した新しい方の『国史大系』を見たほうが安全なような気がしますが、このご時世なのでお許しください(近隣自治体図書館、最近リニューアルしましたが『国史大系』をちゃんと置いているだろうか、という心配)


早速その項に当たってみます。

文章は以下の通り

十日井伊掃部頭直孝。松平下総守忠明始。普代の輩廿七人に鶴の饗善給ひ。御盃御肴下され。各小謡うたひ宴酣に及ぶ。

鶴の饗膳ってなんだよ…というツッコミをしたくなるかもしれません。もしかしたら松竹梅・鶴亀の饗膳やもしれません。ということについては、おそらく研究がどこかにある気がするのでそれは一旦置いておきましょう。

ちなみに「酣(たけなわ)」は一瞬読めなかったのでIMEパッドで書いてみて読みを理解しました。そもそもネットで見る『国史大系』は文字が潰れすぎていて、目がチカチカします。

さて、問題は文中の「普代廿七人」です。「普代」とは「譜代」で間違いないと思われます。廿七人とは27人のことです。

『徳川実紀』のこの項において、井伊直孝、松平忠明という譜代大名の当代筆頭格が挙げられているわけですが。(井伊直孝は知っているけど松平下総守忠明は知らんという方はWikipediaでググればとりあえずわかるんじゃないかと思います。この手の調べものでWikipediaは推奨できませんが、このご時世ならば仕方ないという気がします。)残りの25人がわかりませんね。

これについて、『江戸幕府日記ー姫路酒井家本』にかつて当たることができたので、この年月日を調べてみることにします。この史料、どういうものかというと、ざっくり言えば『徳川実紀』の原典。幕府に関する出来事を将軍右筆が記したものでして、その性質上非常に重要な公記録になるので様々転写されてきているわけですね。ちなみにこれにあたった際、我々がいつも目にしている文体(活字)ではないわけで、読むのに非常に苦労しました。それでも読みやすい方なのではないかと思いますが…


その江戸幕府日記にて、27人が記されているわけですが最後に「真田伊豆守(信之)」「堀丹後守(直寄)」が登場します。

はて?こいつら譜代だったか?

まず、譜代大名というものの定義を再確認しましょう。

歴史の教科書で習った範囲であれば、親藩が徳川家のもの(親戚)、譜代は徳川に代々仕えたお家(関ヶ原の戦い以前)、外様は関ヶ原の戦い以降徳川に仕えたもの、という感じだったでしょうか。

そう考えると、真田伊豆守信之、堀丹後守直寄は微妙なラインです。

特に真田信之は御存じの方もいるように、徳川重臣本多忠勝の娘(家康養女)を妻にしております。それが関ヶ原以前であれば、譜代に入ってもよいのですが、父昌幸と弟信繁(幸村)は徳川家康を追い詰めたわけでして、事情的に少々譜代とするには…という印象を受けます。

一方堀直寄はどうなのでしょう?堀直政で有名な堀家も決して徳川に代々仕えてきた…という家柄ではなく、織田家臣、豊臣大名という位置付けです。その後の徳川家康台頭の折に、徳川寄りになるのですが『寛政重修諸家譜』という江戸時代後期に編纂された各大名家・旗本の家譜集での堀直寄の項を見ると「(戦時においては)藤堂高虎を第1陣、第2陣を井伊直孝、その間に堀直寄が入る(要約)」と家康から遺言を残されたとのことで、随分信用された御仁と見えます。(遊軍的な立ち位置でしょうか)

堀直寄は藤堂高虎的なポジションにも感じられます。


譜代大名の定義に立ち戻ると先述のようなものなのですが、そもそも「親藩・譜代・外様」というくくりが江戸時代のどのあたりから認識され始めたのか?という疑問もあります。

これについては御存じの方がいればご教示願いたいのですが、少なくとも江戸時代初期、職掌、体制などがしっかりと定められていなかった家康・秀忠・家光期には「譜代大名」という認識はなかったのではないかと思います。

そうすると、先ほどの『江戸幕府日記』は当時の日記ですから単純に27人の大名を挙げ、後々江戸時代後期に『徳川実紀』として編纂した際とりあえず「普代の輩廿七人」としたのかなと考えられます。

また、後々「願譜代」なる譜代大名も出てきます。外様大名から譜代大名にランクアップというわけですが、どうしてこれができるのか一概に私には説明できません。(このあたりも少々論文なり研究書なりを漁る必要があるのですが…)

真田家は第8代当主が松平定信の次男、幸貫になっているため、そういった後々の血筋も影響しているとは思います。

堀氏はちょっと手元に『寛政重修諸家譜』の続きがないのでわからないのでごめんなさい。

地理的な話もしましょう。

真田氏が信濃松代(今の長野県)を封地としていたのは割と有名です。堀直寄も、後年においては越後国長岡、村上藩主となっています。この「信濃国」「越後国」という位置も少々気になるところではあります。

加えてイメージ的な話になりますが、越後国といえば上杉謙信を想起させます。彼が前時代に散々北関東国衆を焚き付け、後北条氏を追い詰めていったことことを考えれば、関東・江戸の地における越後国というのはそこそこな要所でしょう。

という話をすると、今度は信濃国・越後国各藩を調べなければならないわけですが…これについては後々、後々としましょう。(これについても気になる記述が『徳川実紀』にあるとは思っております。)


とりあえずメモ的にここまで記述しておこうと思います。

今回この記事を書くにあたって、かつて史料をスキャンしたものを取り出していたのですが、デュアルモニターが欲しいと思いました。

noteはメインモニターで執筆しつつ、史料の閲覧はサブモニターで行う。そんな環境にしたいと久々に思いました。(卒論を書いているときのPCはメインメモリが4GBというクソノーパソだったので、WordやExcelがオワオワリ状態でした。特に古文書一覧をExcelでずっと作成していると、もうCPUがヤバイ)

今回疑問に思ったことに限らず、『徳川実紀』という史料、一日一日読んでしっかり考えたり、文中に出てくる言葉を色々調べてみると色々な発見ができそうなので、疲れていなければ日課と言わなくても週課くらいにはしたいなと思いました。

それこそ声優・渕上舞さんの記事を書くネタがない際はそういうことでもやろうかと思います。

記事序盤における、鶴の饗膳も、調べられそうならば調べようと思います。(というか文字が読みづらかったので本当に鶴なのか。この江戸城中の儀礼、食事的な宮廷文化面も改めて観察すると面白いですね。尤も、沢山書籍は出ていますが)



※パパッと書いてしまったので誤字脱字、文章のおかしな点があるかと思います。後々見直したり、もしくは追記するかもしれません。


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