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「大人なんて生き物はいない」、「若者なんて生き物はいない」

「まあでも、あんたはまだ若いからね」というセリフ、またはそれに類する、ジェネレーションの対比を意識させる会話の一文。

大体は見過ごしてしまうほどの、よくある他愛ない会話の中に現れる一コマであるが、
これらを耳にするたび、どこか苦々しい気持ちを抱いていたことに気づいた。

なんなのだろう?このなんとも鈍い苦みを孕んだセリフは。

「わたしはもう若くないから」というくたびれた視線を向けられているように感じるからだろうか。

自身と他者とを年齢という時間によって隔て、お相手に距離を感じさせる言葉であることは間違いない。

20代前半。20代後半。いよいよ30になる直前。そこから先はあっという間に…
各々の中になんとなくインプットされている、各年齢層に対する人物形成像。

このザラザラとした苦いセリフの背後にあるのは
「人生は、齢を重ねるごとに不自由になっていくものなのだよ」という、やはり諦観みたいなもののようです。

なるほど、確かに歳をとれば肩は上がらなくなるし、休みなく活動し続けると身体に堪えてくるかもしれない。
けれどこのセリフから聞こえてくるのは、そういう物理的な事実だけではなさそうだ。

目の前に相対しているその御仁がそのセリフを発したとき、その人生全体を包括する溜め息が、ほんの一瞬こちらに向けて発せられたような感じがしたとき、ゾクっとするのだと思う。

一体自分の人生を不自由にしたのは〝わたし〟なのか、わたしの周りを取り巻く環境なのか?そして重要なのが、もはやその人生はほんとうに閉ざされてしまったものなのか。

大仰に言ってしまうと、これはある種の
呪詛の言葉になりかねないな、と思ったのです。


そんなときに私たちはどうあるべきか。

もう一度私自身に、年齢という記号などを脱ぎ捨てた、丸裸であるはずの私のイメージを向け直す必要があるのではないか。
そうして元の出発点を再確認し、改めてこれからの作戦を練り直しておくことが急務なようです。それは何度でも。


ところで、その呪縛を解き放つことができる可能性のある、逆のセリフとはなんでしょう?

「そんなことより、今から一緒に海でも見に行きませんか?」


そのお方も私も、皆さまも、
どうぞ各々の自由な夜空に解き放たれてゆかれますよう。

ちなみに私はどちらかというと海より山派です。

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