「選択と集中」のピットフォール
「選択と集中」という言葉がある。有限のリソースの振り分け先を選択して、集中させることで事をなそうという発想だ。逆に言えば、リソースを様々なターゲットに分散させてしまうと何もなせないということでもある。
この発想は「なるほど、そうか」と思えるし、実際にリソースが発散し過ぎて何も成し遂げられない状態に陥った話を1ダースほど話せる。失敗談が後を絶たないため世のコンサルタントがご飯を食べられるのである。が、しかし、この発想には落とし穴(ピットフォール)がある。
それは、この発想が無時間モデルであるということだ。考慮すべき状況、戦局、制限が変わらず、また全て把握しているという予断なくしてはこれは成立しない。「選択と集中」の前提には、全ての選択肢が目の前に置かれている、という予断がある。しかし、現実には私たちの前に全ての選択肢が差し出されていることは決してなく、状況は時間の関数で融通無碍に変化し続ける。
さらには「選択と集中」を行う「私」という存在自体が時間経過に伴って変化していくことも忘れてはならない。今の私には思いもよらなかった選択肢が将来重要なものとしてせりあがってくる可能性があり(それは概ね世界が変わったのではなく貴方が変わったために発生する)、それは今の私にとってはゴミ以下に思っているものであったり、そもそも認知すらしていない(ので是非の判断もできない)ような事項であったりする。
私がミニマリストに対して懐疑的なのはこの「選択と集中」に潜むある種の傲慢さ、謙虚さの欠如が気になるからだ。自分も他者も未来も過去も予測不可能な、その意味で可塑性が高く、開放的な存在である、という人間理解をしていれば「選択と集中」という発想にはあまりならないだろう。そこでは「必要になるかどうかわからないけど何か気になるからとっておく」という行為は唾棄される。
「選択と集中」を全否定したいわけではない。無時間モデルとしての日々のスナップショット(瞬間)に対応する方法論としては有効だと思っている。けれど、現在の自分に見えているものが全てだと思わない方が良く、「選択と集中」の限界や制約を自覚して使わないと傲慢さにつながる。
自分は自分が欲しいもの、必要なものを全て把握している。後はこれを一つずつ手に入れていくだけ。こういうカタログギフトからピックアップするような生き方、タスクリストに線を引いて消していくような生き方は端的にいってあまり幸せではないと思う。
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